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課題集 ガジュマロ の山

★その昔、サングラスを(感)/ 池新
 【1】その昔、サングラスを持つということは、ちょっとした冒険であった。それをかけて街を歩くことは、もっとである。たとえばサングラスというのは、世間に対して少しばかりうしろめたいところのある人がかけるものであって、それだけにややロマンチックな趣はあったものの、当然ながら周囲からそれらしい目で見られる。【2】つまりサングラスをかけて街を歩くためには、常にその種の視線を予定しなければならず、その中で平然としていられる心構えがなければならなかったのである。
 もちろん、今はもうそんなことはない。【3】現在は、普通の人々が普通にサングラスをかけて街を歩いているし、そんなものをかけているからと言って誰も、振り返って見たりはしない。どことなく、後暗いところのある人、という印象も薄れたかわりに、それに伴うロマンチックな趣も消えてしまった。ただ、どうなんだろうか。【4】そうかと言って現在サングラスをかけている人すべてが、光から目を保護するためにそうしているとは思えない。
 夜の人工光線の中でもサングラスをはずさない人がいて、彼に言わせると「サングラスをとると、着ているものを脱いで裸にされたようで恥ずかしい」のだそうである。【5】またひとりは、「私は人をじっと見る癖があるので、人に厭がられないようサングラスをしているのだ」と言う。どうやらサングラスの、「隠れ蓑」としての役割はまだ残っていて、それが一般に利用されているのであろう。【6】もしかしたら、周囲の人々の「隠れているな」という関心を引かなくなった分、よりさり気なく隠れることが出来るようになったのかもしれない。
 最近対人関係が淡泊になったと、よく言われる。憎むことにも、愛することにも、さほど情熱的でなくなったのである。【7】「君子の交りは淡きこと水の如し」という考え方からすれば、それぞれ君子の域に達したとも言えるのであるが、実際にはどうなのだろうか。私に言わせれば、それだけ人々がつつしみ深くなったというより、むしろ対人関係のそうしたわずらわしさに疲れた、という感じがし∵てならない。【8】そして、そのこととサングラスが、無関係ではないように思えるのだ。
 私も何度かサングラスをかけて街を歩いてみたことがある。もちろん最初のうちは、自分で自分のサングラス姿が気になって落ち着かないのだが、すれ違う人々が誰も気にしてないのを知るにつれ、次第に(るひそかな快さを味わえるようになるのである。【9】言うまでもなく、単なる自己満足には違いないものの、何となく世間から一歩退いて、それらの害の及んでこない安全地帯を、ひっそりと歩み去ることが出来るような気がする。
 極端なことを言えば、塀にあいた節穴から、世間というものをのぞき見している心境かもしれない。【0】恐らく、我々の内にある自閉的な傾向がそれを快いと感じさせるのであろうが、だとすれば我々は現在、人に見られ、批評され、こちらからもそれを返すことによって形づくられていた対人関係のわずらわしさから、一斉に逃避し、自分自身の内側へこもりはじめたのである。しかもかつてなら、自らサングラスのかげに隠れようとすると、「隠れているな」という人々の関心を集め、それらを罰として引き受けなければならなかったのだが、今はそれもない。誰でも自由に、自分自身を消すことが出来るのである。
 もちろん、サングラスをかけたからと言って、世間からその人間が見えなくなるわけではない。かけている本人が、世間から見えなくなっているような、錯覚を得るだけである。しかし、世間から見てその人間が、生々しい実体であることを、幾分なりとも薄れさせることは、事実であろう。もしかしたら我々にとって他の人間は、サングラスなしで対面するには、余りに刺激が強すぎるものになりつつあるのかもしれない。

(別役実『カナダのさけの笑い』所収)