課題集 ニシキギ3 の山
苗
絵
林
丘
○自由な題名
/池
池新
○楽しかったこと
/池
池新
○
/池
池新
○ギフチョウの幼虫は、
/池
池新
ギフチョウの幼虫は、アンアオイとよばれる非常にかわった植物の葉を食べて育つ。早春にあらわれたギフチョウは、やがて交尾し、雌はカンアオイの葉のうらに、真珠のような光沢のある卵を、数個から数十個かためて産みつける。――中略――
毛虫はカンアオイの葉をむさぼり食い、六月のはじめにはサナギになる。六月いっぱい、サナギはまわりの温度とは関係なく、ひたすら休眠する。そして七月になると、なぜだかまったくわからないが休眠からさめる。
けれど、そのころから始まる夏の暑さが、サナギからチョウへの変化をおさえる。チョウへの歩みが始まるのは、野山に涼風のたつ十月である。
けれど、ふたたびそこで、今度はたちまちにして訪れる秋の夜の寒さが、チョウへの歩みをにぶらせる。チョウの姿ができあがるのは、その年の末、十二月ごろである。
木枯らしの吹くこの寒さのなかで、やっとできあがった春の女神は、かたいサナギのからのなかでじっと冬の寒さに耐えつづける。
長かった冬も終わりに近づき、寒さがゆるんでくると、女神の衣はいよいよ最後の仕上げにかかる。それとともに囚われの身の女神は、サナギのからをとかす液体を分泌しはじめる。こうしてまもなくサナギのからは割れ、いよいよ女神が、自由の姿をあらわす。
温度に対する反応にもとづいて組まれたこのカレンダーが、ギフチョウの一年をきめていく。そしてギフチョウは、毎年早春のある一定の時期に、春の女神として舞いでるのである。
「ほかのチョウでも、基本的には同じことだ。いずれも冬の間は、じっと寒さに耐えて眠っている。そしてじつは、この一定期間寒さを過ごすということが、春を迎えるために積極的に必要なのである。秋の終わりから寒さにあわせず、ヌクヌクと暖めてやった過保護サナギは、ついにチョウになることなく死んでしまう。つまりチョウたちは、冬の寒さを受身的に耐えているのではない。彼ら∵はきびしい寒さを要求しているのである。暖冬の年の春、チョウたちの姿は例年よりも減ることが多い。
チョウの美しさは、その大部分を鱗粉に負うている。鱗粉はしかし、単に翅の表面にばらまかれた粉ではない。それはこまかな毛の変化したもので、翅の表面に一枚ずつしっかり生えている。
チョウは文句なしに美しい。しかしほかの多くの動物と同様に、より美しいのは雄のほうである。雌は色ももようもずっと地味で、よく装飾品に作られるあの青く光る美しいモルフォチョウも、雌は褐色でおよそ冴えない色をしている。
けれど、その美しい雄はひたすら雌の翅の色に魅かれる。つまり、チョウの雄は、雌の翅の色を目印にして、雌をみつけ、急いで飛んでいって、思いをとげるのである。
このとき、雌のチョウの翅の色は、まさに目じるしなのであってそれ以上の何物でもない。ただの紙切れに色をぬって、適当な場所においてやれば、雄はおろかにもそれに飛んでくる。紙の形などは極端にいえばどうでもよい。四角でも三角でもかまわないのだ。
アゲハチョウは雄も雌も黒と黄の縞もようをもっているが、雄はこの黒と黄の縞もように魅きつけられる。黒い長方形のボール紙に、翅の黄色い部分をいくつか貼りつけた「モデル」を作り、アゲハの雄が雌を探して飛びまわっているところに出してやると、雄はほんものの雌に対するのと同じ真剣さでこの紙モデルに飛びついてくる。
もっと驚いたことに、この縞は黒と黄でなくともよい。黒と緑の縞でも一向にかまわないのである。とはいえ、黒と青ではさすがにだめだし、黒と赤でもいけない。そして黒と黄の場合でも、特定の黄色でなければ、雄はそれを雌の目じるしだとは思わない。
(日高敏隆「生きものの世界への疑問」)