昨日582 今日686 合計160511
課題集 ニシキギ3 の山

○自由な題名 / 池新
○うれしかったこと / 池新


○二か月、三か月と / 池新
 二か月、三か月とすぎた。まだ、兵太郎君は学校へ姿をみせない。そのあいだ久助君は兵太郎君についてほとんど何もきかなかった。ただ一度こういうことがあった。ある朝久助君が教室に入ってくると、ちょうどいきちがいに、ふたりの級友が机を一つ廊下へさげ出していた。「だれのだい。」と何げなくきくと、ひとりが「兵タンのだよ。」と答えた。それだけであった。それからこういうことがもう一度あった。薬屋の音次郎君が、ある午後裏門の外で久助君を待っていて、いまから兵タンのところへ薬を持っていくからいっしょにいこうとさそった。久助君はびっくりしたが同意して出かけた。薬はアスピリンというよく熱をとる薬だそうである。兵太郎君はかぜをひいたのがもとだから、このアスピリンで熱をとればすぐなおってしまうと、音次郎君は医者のように自信をもっていった。ほんとにそうだ、と知らないくせに久助君も思った。それにしても、それほどよくきく薬ならなぜもっと早く持っていってやらなかったのだろう。やがていつもは通らない村はずれの常念寺のまえにきた。常念寺の土塀の西南のすみに小さな家が土塀によりかかるように(じじつ、すこし傾いている。)たっている。それが兵太郎君の家である。ふたりは土塀にそって歩いていった。兵太郎君の家のまえにきた。入口があいていて中は暗い。人がいるのかいないのかコトリとも音がしない。陽のあたるしきいの上で猫が前肢まえあしをなめているばかりだ。ふたりの足はとまらなかった。むしろ足ははやくなった。そして通りすぎてしまい、それきりだったのである。
 久助君はほかの友だちと笑ったり話したりするのがきらいになった。そして、ひとりでぼんやりしていることが多かった。それからひどくわすれっぽくなった。何かしかけてわすれてしまうようなことが多かった。いま手に持っていた本が、ふと気づくともう手になかった。どこにおいたか、いくら頭をしぼっても思いだせないというふうであった。お使いにいって、買うものをわすれてしまい、あてずっぽうに買って帰って、まるでラジオできく落語みたいだと笑われたこともあった。∵
 もとから久助くんは、どうかするとみなれた風景や人びとの姿が、ひどく殺風景にあじきなくみえ、そういうもののなかにあって、自分の魂が、ちょうど茨のなかにつっこんだ手のようにいためられるのを感じることがあったが、このころはいっそうそれが多く、いっそうひどくなった。こんなつまらない、いやなところに、なぜ人間はうまれて、生きなければならぬのかと思って、ぼんやり庭の外をながめていることがあった。また、冷たい水にわずか五分ばかりはいっていただけで、病気にかかり死なねばならぬ(久助君には兵太郎君が死ぬとしか思えなかった。)人間というものが、いっそうみじめな、つまらないものに思えるのであった。
 三学期の終わり頃、ついに兵太郎君が死んだということを久助君は耳にした。弁当のあと久助君は教壇のわきでひなたぼっこをしていた。すると、向こうのすみで話し合っていた一団の中から、
「兵タンが死んだげなぞ。」
とひとりがいった。
「ほうけ。」
ほかの者がいった。べつだんおどろくふうもみえなかった。久助君もおどろかなかった。久助君の心は、おどろくには、くたびれすぎていたのだ。
「うらのわら小屋で死んだまねをしとったら、ほんとに死んじゃったげな。」
とはじめのひとりがいうと、他の者たちは明るく笑って、兵太郎君の死んだまねや腹痛のまねのうまかったことをひとしきり話し合った。
 久助君はもうきいていなかった。ああ、とうとうそうなってしまったのかと思った。そっと片手を床の上の陽なたにはわせてみると、自分の手はかさかさして、くたびれていて、悲しげに、みにくくみえた。
 日暮だった。

(新美南吉「川」)