昨日1890 今日554 合計159060
課題集 ネコヤナギ3 の山

★お前はどうも本好きで/ 池新
「お前はどうも本好きでいかん」
 父親は剣道何段かのスポーツマンで、毎朝、私を雪のなかに引っぱり出しては竹刀を持たせて切り返しだの、素振すぶりだのをやらせるのである。
 私は、決して本だけが好きな弱々しい少年ではなかった。むしろ、英雄や冒険物語の主人公にあこがれ、忍術の真似をして屋根から飛びおりたり、喧嘩でひたいを割られたり、水泳や分列行進が好きだったりする活発な子供だったとおもう。
 だが、両親はいずれにせよ、私が活字を読むことを好まなかった。彼らは私を余り物を考えず、直情で健康な、竹を割ったような男の子に仕立てあげたがっていたのだという気がする。しかし、私にとって、活字を通じて自分の空想の世界に遊ぶことは、生きるということと同じ位、本質的なことのように感じられた。
 私は<のらくろ>や<冒険ダン吉>を、かなり幼い時に卒業し、小学生の上級になると、両親の本棚にある実に雑多な本を、ほとんど目を通してしまっていた。
<小島の春>だとか、<もめん随筆>だとか、<放浪記>だとかいった本は、たぶん母親の蔵書だったにちがいない。私はそんな本が面白くて仕方がなかったが、一方では、学校の仲間から借りて読む、山中峯太郎や佐藤紅緑の世界にも熱中していた。佐々木邦のユーモア小説も、私の大好きな本の一つだった。江戸川乱歩や岡本綺堂なども、学校の友人から借りて読んだ。
 私はかなりの距離を、市電と徒歩で通学していた。その行き帰りに、歩きながら本を読む習慣がついてしまって、家のそばまで来ても、まだ読むのを止めるのが惜しく、もう一度、電車の駅まで歩きながら読み続けたりしたものだ。一度、私がカバンを背負ったまま、家の前から電車の停留所の方角へ本に熱中しながら逆もどりしている時、父親に出会ったことがある。
「お前、どこへ行くんだ」∵
 父親は、学校から帰る時刻に逆に登校でもするかのような私の様子を見て、けげんそうにたずねた。
「学校に筆箱を忘れてきたから取りに行こうと思って」
 と、私は言ったが、父親はなんとなく私が行き帰りに本を読むことに夢中になっているのを感づいたようだった。
 そして、私が学校から帰ってくると、私のカバンを開け、なかに借りてきた小説本や読物のたぐいがはいっていると、黙って取り上げたまま返してくれなかった。
 そのことで私はひどく友人たちに義理の悪い思いをしたことがある。
 私はそこで自衛のために一計を案じた。帰り道に読み続けてきた本を、家のなかに持ち込まないようにするのである。冬の日など、私は読みさしの本を新聞紙にくるんで、家の生垣のあたりに積みあげられている雪のなかに突っ込んで隠しておくことにした。
 そして次の朝、それを掘り出して、雪を払い新聞紙を拡げて読み続けるのだ。
 時には本のなかに雪が飛び込んで、それが凍てつき、ページがパリパリと音を立てたりすることもあった。
 そんな時代を、いま想いおこしてみると、禁じられた読書のなんともいえない鮮烈なよろこびの記憶が、まざまざとよみがえってくる。現在、私は活字のなかに埋れ、そしてそれを再生産する生活のなかで、義務としての読書、必要からの読書に追われているが、すでに活字が行間から立ち上ってくるような、あの少年時代の読書のよろこびからは、はるかに遠い所にいる自分を感ぜずにはいられない。
 本というものは、本来、あのようにして読むべきものではなかろうか、という気がする。

(五木寛之「地図のない旅」)