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課題集 ネコヤナギ3 の山

○自由な題名 / 池新
○寒い朝、体がぽかぽか / 池新


★はじめのニュースで / 池新
 「はじめのニュースで、『故○○さん』とお伝えしましたが、たいへん失礼いたしました。これは誤りで、○○さんはご生存で、元気でご活やくでした。おわびして訂正させていただきます。これでニュースの時間を終わります。」
 これはテレビニュースの時間におじさんが実際に聞いた話で、しかもこのようなアナウンスを耳にしたのは一度や二度ではない。最初にふ報を聞いたときにはがく然とし、数分後に訂正を聞いたときにはあ然とした。私はたまたまニュースの時間わくの最後までつき合っていたから訂正が間に合ったようなものの、もし途中でテレビを消してしまっていたらどんなことになっただろう。「たいへん失礼いたしました」だけでは、その人はしばらく生き返れないかもしれない。
 ある日ある時に「同時性」をもって放送することがテレビの最大の特ちょうであるとすれば、それは「一回こっきり」ということでもある。ほんものと同じ「ある日ある時」は二度と存在しない。テレビが私たちを強引に引きつけるのは潜在的にこの意識があるからである。ビデオに録画しておいていつかゆっくり見ようということでよいはずなのだが、深夜とか旅行中だからどうしても、という場合を除いては、私たちはそうしようとは思わない。ビデオはなんとなく本物と思えないところがある。
 ところで、テレビ人形劇の初期の大傑作「ひょっこりひょうたん島」の作者でもあった作家の井上ひさし氏はこう述べている。
 「テレビの条件である『(テレビ)放映の一回こっきり性』は、一回こっきりだからこそ最善のものを放映すべきであるという激しい決意を制作側にもたらすであろう、ともかんがえられた。」「一回こっきりだから最善をつくそうという気になるというのは、どうやらわたしの机上の空論のようだった。放送の仕事にたずさわってみると、『一回こっきりだから、間に合いさえすればよい』という処世訓の方がずっと実際的なのであった。」「たとえば、しめ切りに間に合わなくなると、ディレクターたちは『なんでもいいから書いて持ってきなさい。』と電話口でさけんだ。」「そのなんで∵もいいものを見せられた若い人たちこそ災難だったのではないか。」
 「笑い」の作家として、テレビが世の中の「おもしろいもの」を手当たりしだいに風化していく乱暴をなげく前提として語っているのだが、テレビが進むべき方向をなお真けんに模さくしていた七三年のときにしてすでにこう見ぬいている。
 この「一回こっきり」が良く作用するか、悪く作用するかである。冒頭のおわびと訂正のように、テレビのまちがいにはあ然とさせられることがしばしばあるが、常識的にはこの場合には「悪く」作用しているとしか考えられない。テロップの文字の誤りにいたっては日常茶飯事だ。私たちが直接指てきしなければ、訂正もおわびもせずにできれば見すごしたいという気配すらある。ニュースで殺された人が、めいわくをこうむったからといってテレビ局を非難しようものなら、大人げない、わきまえのない人よと世間から笑われるのが落ちである。
 しかし、この軽さがまたテレビの気のおけないところでもある。「テレビとはそういうもの」という親しみをいっそう特ちょうづけている。しゅん間しゅん間に消えて行く画(え)と音、そのしゅん間にこだわってはいけない。このことがテレビのわかりやすさの大きな要因でもある。
 (中略)
 テレビマンは「われわれは時間との勝負にかけている」と格好よく見えをはるが、私たちはそれがかくれみのや言いわけにならないように監視しなければならない。要は、私たちがテレビ的社会の無責任性を今後もかんげいするか、あるいは責任をどこまでも形にしてしつように追い求める活字的社会にこだわるかにかかわっているようである。

(佐藤二雄つぎお「テレビとのつきあい方」)