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課題集 ネコヤナギ の山

○ぼくは子どものころ、/ 池新
 ぼくは子どものころ、弱虫だったので、どちらかというと、いじめられる側だった。それでも、ぼくよりもっといじけた子にたいして、いじめなかったかというと、そうも言いきれない。いま考えると、そのぼくは、とてもみじめだ。
 たとえば、近所に鬼がわらのような顔の子がいて、「鬼の子」とはやして、いじめたことがあった。そこへ、その子の母親が涙を流して飛びだしてきたとき、まったくびっくりした。いじめている側は、ことの重要さを理解していないことが多い。
 いじめている人間が、強いわけではない。抑圧されている人間は、いじめる相手を探しがちなものだ。上級生が下級生をいじめる学校は、たいてい管理がきびしい。クラブだって、リベラル(自由主義的)な雰囲気のあるところだと、上級生も下級生も友だちづきあいしている。いじめている人間はたいてい、体制によっていじめられている、弱い人間なのだ。強ければ、弱い者いじめなんか、する必要がない。
 ときには、だれかをいじめているという、加害意識のないことも多い。その集団が、いじめを作っている。いじめられるほうにしてみれば、そのほうがつらい。罪の意識なしに悪いことをするほど、困ったことはない。
 それでも、やがて、もしもまともに成長すれば、そのときの自分が、こうした状況に強制されて、罪の意識なしに、だれかをいじめていた事実に気がつく。たいてい、そのときには、もう過去をとりもどすことができない。しかも、その自分は、そうした状況のなかで、弱くみじめで、その弱さゆえに、そんなことをしていたことがわかる。
 こうした、みじめな気持ちを持つようには、ならぬほうがよい。いじめられている子もみじめだろうが、あとになって考えてみると、いじめたほうだって、それに劣らず、みじめなものだ。
 とくにこのごろ、一種の村八分みたいな、いじめ方があるらしい。彼もしくは彼女が、存在しないように扱う。顔を合わさず、声をかわさず、存在自体を無視してしまう。これは、一種の精神的殺∵人である。暴走よりも、万引きよりも、もっとひどい、最大級の非行だと思う。
 ときに、いじめの計画者がいないことさえある。集団自体が、いじめ存在になる。ちょっと怪談じみたこわさがある。こうしたとき、みんな普通の中学生で、だれも、いじめているという意識のないことがある。これは、なおこわい。いじめていないつもりで、いじめてしまっている、このこわさの感覚は、怪談の感覚である。
 ときには、いじめられている子までが、それを意識していないこともある。こうなると、最高にこわい。意識していなくても、いじめは存在している。意識にのぼらない魂の底で、一種の夢魔の世界で、だれかがだれかをいじめている。
(中略)
 中学生の間で、いじめが増えているというのを、悪い子がいるからだとは、ぼくは思わない。いじめっこも、たいていは、普通の子だと思う。いまの中学生の状況が、そうした弱い部分を作っているのだとは思う。
 それでも、もしきみが、よく考えてみて、だれかをいじめているとしたら、すぐにやめたほうがよい。あとでかならず、それはきみにとって、とてもみじめな思いになる。相手にたいしてだけでなく、きみ自身の未来のために、すぐにやめたほうがよい。
 だれかをいじめたくなるには、きみのおかれている空気があろう。それはわかる。でも、そのために、だれかをいじめるとしたら、それはきみの弱さだ。人間というものは、弱いもので、ぼくは人間の弱さを、むしろいとおしむほうだが、この場合だけは、いや、この場合こそ、きみに強くなってほしい。
 やる気を出せとか、根性でがんばれとか、そんな声にのっかって、強くなれというのは、ぼくの趣味ではない。それより、どんな状況にしろ、状況に負けて、他人をいじめることで心のバランスをとったりしないような、自分自身の心の強さがほしい。

(森毅「まちがったっていいじゃないか」)