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課題集 ネコヤナギ の山

★そっ啄(そったく)(感)/ 池新
 【1】そっ啄の機という言葉がある。得がたい好機の意味で使われる。比喩であって、もとは、親鶏おやどりが、孵化しようとしている卵を外からつついてやる、それと卵の中から殻を破ろうとするのとが、ぴったり呼吸の合うことをいったもののようである。
 【2】もし、卵が孵化しようとしているのに親鶏おやどりのつつきが遅れれば、中でひなは窒息してしまう。逆に、つつくのが早すぎれば、まだひなになる準備のできていないのが生まれてくるわけで、これまた死んでしまうほかはない。
 【3】早すぎず遅すぎず。まさにこのときというタイミングがそっ啄の機である。
 自然の摂理はおどろくほど精巧らしいから、ほかにもいろいろな形でそっ啄の機に相当するものがあるに違いないが、かえる卵はもっとも劇的なものといってよかろう。
 【4】われわれの頭に浮かぶ考えも、その初めはいわば卵のようなものである。そのままではひなにもならないし、飛ぶこともできない。温めてかえるのを待つ。
 時間をかけて温める必要がある。だからといって、いつまでも温めていればよいというわけでもない。【5】あまり長く放っておけばせっかくの卵も腐ってしまう。また反対に、孵化を急ぐようなことがあれば、未熟らんとして生まれ、たちまち生命を失ってしまう。
 ちょうどよい時に、卵を外からつついてやると、ひなになる。【6】たんなる思いつきが、まとまった思考のひなとして生まれかわる。
 われわれはほとんど毎日のように、何かしら新しい考えの卵を頭の中で生み落としている。ただそれを自覚しないだけである。これがりっぱな思考に育つのは、実際にごくまれな偶然のように考えられている。
 【7】卵はおびただしく生まれているのに、適時に殻を破ってくれるきっかけに恵まれないために、孵化することなく、闇から闇へ葬り去られているのであろう。∵
 逆に、外から適当な刺激が訪れて、破るべき卵の殻がありさえすれば、孵化が起こるのにと思われるときもすくなくなかろう。【8】ところがそういう時に限って、皮肉にも頭の中にちょうどその段階に達している卵がない、ということが多い。せっかく、ついばむ力が外から加わっているのに、こうしてむなしく機会を逸してしまうことになる。
 【9】頭の中に卵が温められていて、まさに孵化しようとしているときなら、ほんのちょっとしたきっかけがあれば、それでひながかえる。この千に一番のかね合いが難しい。それでそっ啄の機が偶然の符合のように思われるのである。【0】古来、天来の妙想、インスピレーション、霊感などといわれてきたのも、それがいかに稀有のことであるかを物語っている。
 たとえ稀有だとしても、起こることは起こっているのである。人間ならだれしも霊感のきっかけの訪れは受けるはずで、それをインスピレーションにするか、流れ星のようなものにしてしまうかの違いにすぎない。これには運ということもある。いくら努力してみても運命の女神がほほえみかけてくれなければ、着想というひなはかえらないであろうと思われる。もっともどんなに運命が味方してくれても、もとの卵がないのでは話にならない。人事を尽くして天命を待つ。偶然の奇蹟の起こるのを祈る。
 すこし話が神秘的になってきた。もっと日常的な次元で考えてみよう。
 何でもない人間と人間とが、たまたま知り合いになる。互いに不思議な感銘を与え合って、それがきっかけになって、めいめいの人生がそれまでとは違ったものになるということがある。出会いである。一期一会だという。
 ほかの人たちとどれほど親しく交わっていても得られなかったものが、何気ない出会いで与えられる。ここにもそっ啄の機が認められる。われわれはそれと気付かずに、そういう偶然を一生さがし求∵めつづけているのかもしれない。
 それにめぐり会えたとき、奇蹟が起こるというわけだ。
 難解な本は一度ではよくわからない。それに絶望しないで、くりかえし読んでいると、そのうちに理解できるようになる。読書百遍意おのずから通ず。古人はそう教えた。思考も同じことで、初めから全体がはっきりすることはすくない。何度も何度も考えているうちに、自然に形をあらわしてくる。
 人間にとって価値のあることは、大体において、時間がかかる。即興に生まれてすばらしいものもときにないではないが、まず普通はじっくり時間をかけたものでないと、長い生命をもちにくい。寝させておく。温めておく。そして、決定的瞬間の訪れるのを待つ。そこでことはすべて一挙に解明される。
 『論語』の冒頭にある一句「学ビテ時ニこれヲ習フ、亦よろこバシカラズヤ」も読書百遍と同じように考えることができるかもしれない。勉強したことを機会あるごとに復習していると、知識がおのずからほんものになって身につく。それが愉快だというのである。学んで時にこれを習う、そっ啄の機はいつやってくるかしれない、折にふれて立ち返ってみる必要がある、と教えているのであろうか。