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課題集 ナツメ3 の山

○自由な題名 / 池新
○わたしの長所 / 池新
★清書(せいしょ) / 池新

○ちょうど、その前の年 / 池新
 ちょうど、その前の年、僕が六年生の晩秋のことであった。
 中学へ入るための予習が、もう毎日つづいていた。暗くなって家へ帰ると、梶棒をおろしたくるまが二台表にあり、玄関の上がり口に車夫しゃふがキセルで煙草をのんでいた。
 この二、三日、母の容体が面白くないことは知っていたので、くつを脱ぎながら、僕は気になった。着物に着がえ顔を洗って、電気のついた茶の間へ行くと、食事のしたくのしてある食卓のわきに、編み物をしながら、姉は僕を待っていた。僕はおやつをすぐにほおばりながら聞いた。
「ただ今。――お医者さん、きょうは二人?」
「ええ、昨夜からお悪いのよ」
 いつもおなかをへらして帰って来るので、姉はすぐにご飯をよそってくれた。
 父と三人で食卓を囲むことは、そのころはほとんどなかった。ムシャムシャ食べ出した後に、姉もはしをとりながら、
「節ちゃん、お父さまがね」という。「あさっての遠足ね、この分だとやめてもらうかも知れないッて、そうおっしゃっていたよ」
 遠足というのは、六年生だけ一晩泊まりで、修学旅行で日光へ行くことになっていたのだ。
「チェッ」僕は乱暴にそういうと、ちゃわんを姉につき出した。
「節ちゃんには、ほんとにすまないけど、もしものことがあったら。――お母さんとてもお悪いのよ」
「知らない!」
 姉は涙ぐんでいる様子であった。それもつらくて、それきりだまりつづけて夕飯をかきこんだ。(中略)
 生まれて初めて、級友と一泊旅行に出るということが、少年にとってどんなにみりょくを持っているか! 級の誰彼との約束や計画が、あざやかに浮かんでくる。両の眼に涙がいっぱいあふれてきた。
 父の書斎のとびらがなかば開いたまま、廊下へ灯がもれている。(中略)∵
 いつも父のすわる大ぶりないす。そして、ヒョイッと見ると、たくの上には、くるみを盛った皿が置いてある。くるみの味なぞは、子供に縁のないものだ。イライラした気持ちであった。
 どすんと、そのいすへ身を投げこむと、僕はくるみを一つ取った。そして、冷たいナット・クラッカーへはさんで、片手でハンドルを圧した。小さなてのひらへ、かろうじて納まったハンドルは、くるみの固いからの上をグリグリとこするだけで、手応えはない。「どうしても割ってやる」そんな気持ちで、僕はさらに右手の上を、左手で包み、ひざの上で全身の力をこめた。しかし、級の中でも小柄で、きゃしゃな自分の力では、ビクともしない。(中略)
 左手の下でにぎりしめた右のてのひらの皮が、少しむけて、ヒリヒリする。僕はかんしゃくを起こして、ナット・クラッカーをたくの上へ放り出した。クラッカーはくるみの皿に激しく当たって、皿は割れた。くるみが三つ四つ、たくからゆかへ落ちた。
 そうするつもりは、さらさらなかったのだ。ハッとして、いすを立った。
 僕は二階へかけ上がり、勉強机にもたれてひとりで泣いた。その晩は、母の病室へも見舞いに行かずにしまった。
 しかし、幸いなことに、母の病気は翌日から小康を得て、僕は日光へ遠足に行くことができた。
 ふすまをはらった宿屋の大広間に、ズラリとふとんをしきつらねたその夜は、実ににぎやかだった。果てしなくはしゃぐ、子供たちの上の電燈は、八時ごろに消されたが、それでも、なかなかさわぎはしずまらなかった。
 いつまでも僕は寝つかれず、東京の家のことが思われてならなかった。やすらかな友だちの寝息が耳につき、覆いをした母への電燈が、まざまざと眼に浮かんできたりした。僕は、ひそかに自分の性質を反省した。この反省は、僕の生涯で最初のものであった。

(永井龍男「胡桃割り」)