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課題集 ナツメ3 の山

○自由な題名 / 池新
○私の夜(よる)、カタツムリを見つけたこと / 池新
○スリルがあったこと、水や土で遊んだこと / 池新

★わたしは窓を開いて / 池新
 わたしは窓を開いて見ました。
「サワン! 大きな声で鳴くな」
 けれどサワンの悲鳴はやみませんでした。窓の外の木立はまだこずえにそれぞれ雨滴をため、もしも幹に手をふれると、幾百ものつゆが一時に降りそそいだでありましょう。けれど、すでによく晴れわたった月夜でありました。
 わたしは外に出て見ました。するとサワンは屋根のむねに出て、その長い首を空に高くさし伸べて、かれとしてはできるかぎり大きな声で鳴いていたのです。かれが首をさし伸ばしている方角の空には、夜ふけになって上る月のならわしとして、赤くよごれたいびつな月が出ていました。そうして、月の左手から右手の方向にむかって、夜空に高く三羽のがんが飛んでいるところでした。わたしは気がつきました。この三羽のがんとサワンは、空の高いところと屋根の上で、互いに声に力をこめて鳴きかわしていたのです。サワンがたとえば声を三つに切って鳴くと、三羽のがんのいずれかが声を三つに切って鳴き、かれらは何かを話しあっていたのに違いありません。察するところサワンは三羽の僚友たちにむかって、
「わたしをいっしょに連れて行ってくれ!」
 と叫んでいたのでありましょう。
 わたしはサワンが逃げ出すのを心配して、かれの鳴き声にことばをさしはさみました。
「サワン! 屋根から降りてこい!」
 サワンの態度はいつもとちがい、かれはわたしの言いつけを無視して、三羽のがんに鳴きすがるばかりです。わたしは口笛を吹いて呼んでみたり、両手で手招きしたりしていましたが、ついにたまらなくなって、棒ぎれで庭木の枝をたたいてどならなければならなくなりました。
「サワン! おまえはそんな高いところへ登って、危険だよ。早く降りてこい。こら、おまえどうしても降りてこないのか!」
 けれどサワンは、三羽の僚友たちの姿と鳴き声がまったく消え∵去ってしまうまで、屋根の頂上から降りようとはしなかったのです。もしこのときのサワンのありさまをながめた人があったならば、おそらく次のような場面を心に描くことができるでしょう――遠い離れ島に漂流した老人の哲学者が、十年ぶりにようやく沖を通りすがった船を見つけたときの有様――を人々は屋根の上のサワンの姿に見ることができたでしょう。
 サワンがふたたび屋根などに飛び上がらないようにするためには、かれの足をひもで結んで、ひもの一端を柱にくくりつけておかなければならないはずでした。けれどわたしはそういう手荒なことを遠慮しました。かれに対するわたしの愛着を裏切って、かれが遠いところに逃げ去ろうとはまるで信じられなかったからです。わたしはかれの翼の羽を、それ以上に短くすれば傷つくほど短く切っていたのです。あまりかれを苛酷に取り扱うことをわたしは好みませんでした。
 ただわたしは翌日になってから、サワンをしかりつけただけでした。
「サワン! おまえ、逃げたりなんかしないだろうな。そんな薄情なことはよしてくれ」
 わたしはサワンに、かれが三日かかっても食べきれないほど多量のえさを与えました。
 サワンは、屋根に登って必ずかんだかい声で鳴く習慣を覚えました。それは月の明るい夜にかぎり、そして夜ふけにかぎられていました。そういうとき、わたしは机にひじをついたまま、または夜ふけの寝床の中で、サワンの鳴き声に答えるところの夜空を行くがんの声に耳を傾けるのでありました。その声というのは、よほど注意しなければ聞くことができないほど、そんなにかすかながんの遠音とおねです。それは聞きようによっては、夜ふけそれ自体が孤独のためにうち負かされてもらす歎息かとも思われ、もしそうだとすればサワンは夜ふけの歎息と話をしていたわけでありましょう。
 その夜は、サワンがいつもよりさらにかんだかく鳴きました。ほ∵とんど号泣に近かったくらいです。けれどわたしは、かれが屋根に登ったときにかぎってわたしのいいつけを守らないことを知っていたので、外に出て見ようとはしませんでした。机の前にすわってみたり、早くかれの鳴き声がやんでくれればいいと願ったり、あすからはかれの羽を切らないことにして、出発の自由を与えてやらなくてはなるまいなどと考えたりしていたのです。そうしてわたしは寝床にはいってからも、たとえばものすごい風雨の音を聞くまいとする幼児が眠るときのように、ふとんをひたいのところまでかぶって眠ろうと努力しました。それゆえ、サワンの号泣はもはや聞えなくなりましたが、サワンが屋根の頂上に立って空を仰いで鳴いている姿は、わたしの心の中から消え去ろうとしませんでした。そこでわたしの想像の中に現われたサワンもかんだかく鳴き叫んで、実際にわたしを困らせてしまったのでありました。
 わたしは決心しました。あすの朝になったら、サワンの翼に羽の早く生じる薬を塗ってやろう。新鮮な羽は、かれの好みのままの空高くへ、かれを飛び立たせるでしょう。万一にもわたしに古風な趣味があるならば、わたしはかれの足にブリキの指輪をはめてやってもいい。そのブリキには、「サワンよ、月明の空を、高く楽しく飛べよ」ということばを小刀で彫りつけてもいい。
 翌日、わたしはサワンの姿が見えないのに気がつきました。
「サワン、出てこい!」
 わたしは狼狽しました。廊下の下にも屋根の上にも、どこにもいないのです。そしてトタンのひさしの上には一本の胸毛が、あきらかにサワンの胸毛であったのですが、トタンの継ぎ目にささって朝の微風にそよいでいます。わたしは急いで沼地へ捜しに行きました。
 そこにはサワンはいないらしい気配でした。岸にはえている背の高い草は、その茎の先にすでに穂をつけて、わたしの肩や帽子に綿毛の種子が散りそそいだのであります。
「サワン、サワンいないか。いるならば、出てきてくれ! どうか∵頼む、出てこい!」
 水底には植物の朽ちた葉が沈んでいて、サワンは決してここにもいないことがわかりました。おそらくかれは、かれの僚友たちの翼にかかえられ、かれの季節向きの旅行に出ていってしまったのでありましょう。

(井伏鱒二「屋根の上のサワン」)