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課題集 ナツメ3 の山

○自由な題名 / 池新
○落書き / 池新
★清書(せいしょ) / 池新

○南博人は従順な子であり / 池新
 南博人ひろとは従順な子であり、いたずらっ子でもあった。先生に反抗らしい態度に出たことは一度もなかった。しかし彼は、そのとき、先生が言った最後の言葉に疑問を持った。ひとりで山へ入ったならば、自力で頂上へ出ることは困難であるということに嘘を感じた。札幌の郊外にある藻岩山は、彼が生まれた時から馴れた山だった。道をそれても、上へ上へと登っていけばやがては頂上へ出られる筈である。それは小学校五年生の理屈であった。
「おい、南どうした」
 列が動き出しても頂上の方も見詰めたまま突立っている南に不審をいだいて隣の少年が話しかけた。
「おれは、山の中へ入る。先生に言うなよ、言ったら、げんこつくれてやるぞ」
 南の受持ちの先生のあだなはげんこつ先生である。悪いことをすると、げんこつをくれるからである。南はげんこつ先生の真似をして、隣の少年をげんこつでおどかしてやぶの中へ飛びこんだ。やぶの中を頂上まで登る気はなかった。道をそれたら、頂上へ出られないという先生のことばが、ほんとうか嘘かたしかめたかったし、同時に彼は山の中がどんな構造になっているかも知りたかった。彼はクラスで走るのは一番速かったから、五分や十分の道草を食っていても、直ぐ追いつける自信があった。それにげんこつを見せた以上、誰かが先生に告げ口をするということはまず考えられなかった。彼は餓鬼大将だった。
 彼はやぶへ入った。木が密生している間をかいくぐっていくと、木の芽の強い芳香が彼の鼻をくすぐった。彼は幾度かくしゃみをした。くしゃみが誰かに聞えはしないかと、耳を済ませたが、もう少年たちの足音は聞えなかった。
 彼はにっこり笑った。たいへん面白い考えが浮かんだからである。少年たちは六十名いた。彼等が先生に引率されて頂上に達するまでに、先廻りをして頂上に行ってやろうという野望を起した∵のである。先廻りをした罪で、げんこつ先生に一つぐらいげんこつを頂だいしてもかまわないと思った。
 彼は森の中を頂上目がけて登り出したが、道のないところを登ることがいかに困難であるかを知ると、彼自身のやっていることが、かなり冒険であることに気がついた。
 彼はもと来た道へ引き返そうとして、そっちの方へ移動したが、道らしいものはなく、いよいよ樹木の深みにはまりこんでいった。彼はひどくあわてた。彼は幾度か叫ぼうとしたが、声は咽喉で止った。彼は眼に泪をためた。先生のいうとおりだとすれば、さっき彼がたてた理屈がおかしくなる。頂上は一つだ、登っていけば必ず頂上に行き当る筈だ。
 彼は気を取り直した。道を探すことはやめて、一途いちずに頂上を目ざして直登ちょくとしていった。必ず頂上があると思いこんでいれば、道に迷ったことも、朋輩たちと別れたことも、先生に叱られることも、少しも怖くはなかった。
 高い方高い方へ登っていくと、少しずつ明るさが増して来ることが彼にとって希望だった。明るさが増して来ることは、頂上に近づいていることだとは分らなかった。やがて彼は道とも踏み跡ともつかないものに行き当った。そこを登っていくと、ややはっきりした山道に出会い、そこから頂上までは楽な登りだった。
 げんこつ先生は真青な顔をして待っていた。

(新田次郎「神々の岸壁」)