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課題集 ナツメ3 の山

○自由な題名 / 池新
○私の癖(くせ) / 池新
○秘密基地、初めて何かを食べたこと / 池新

★つゆのまだ晴れきらない / 池新
 つゆのまだ晴れきらない、どんよりした日の午後のことでした。次郎は、その日、村の子どもたち五、六人といっしょに学校から帰ってきていましたが、村の入り口に近い農家の前までくると、その庭先に、顔なじみの牛肉屋さんが、ちょうど荷をおろそうとしているところでした。この村に牛肉屋さんがやってくるのはめずらしいことで、せいぜい月に一度ぐらいでしたが、その顔は、きまっていましたし、子どもたちにとっては、それがめずらしいだけに、かえってわすれられない顔だったのです。
 子どもたちは、とびつくように、すぐそのまわりを取りかこみました。そして、赤黒い、あぶらけのない肉が、出刃の動きにつれて、つぎつぎにきざまれていくのを、息をつめて見ているのでした。むし暑い空気の中に、なまぐさい、いやなにおいがただよってきましたが、そんなにおいまでが、みんなの鼻には、めずらしい香料のにおいででもあるかのように流れこんでいるのでした。
 次郎は、しかし、もうそんなことには、たいして心をひかれませんでした。かれは、ほんのちょっとだけ、みんなのうしろから、それをのぞいただけでした。が、のぞいたとたん、ふと、かれの頭に浮かんできたことがありました。それは、病気のかあさんが毎日飲んでいるスープのことでした。
「かしわ(鶏肉)のスープには、もうあきあきしましたわ。」
「そう? でも、がまんして飲まないと、精がつかないよ。」
「やっぱり、かしわのスープでないと、いけませんかしら。同じスープでも、変わったものだと、よさそうに思いますけど。」
「そうねえ、それは牛肉だっていいだろうともさ。こんど肉屋さんがきたら、一度、牛肉でこさえてみようかね。」
 かれは、肉屋さんのまないたの上にきざまれていく肉の切れに、もう一度目をやりながら、頭の中で、自分のつくえの引き出しにしまってある、おこづかいのたかを勘定してみました。それは五十銭ぐらいあるはずでした。かれは、それを思いあたると、きゅうに胸がわくわくしてきました。そして、上気したように顔をほてらせ、みんなの顔を見まわしたあと、やにわに家のほうにむかって走りだしました。

(下村湖人「次郎物語」)