昨日1072 今日1188 合計2260
課題集 ムベ3 の山

★どこへ行って/ 池新
「……どこへ行って?」「チャリコット」――チャリコットは私たちが車を捨ててポーターをやとった峠の拠点である。トラックの来る最終地点なので、むろんビールはある。峠の茶屋の棚に何本かびんが並んでいるのを来る時に眼の隅で見た。でも、チャリコットまでは大人の脚でも一時間半はかかるのである。「遠いじゃないか。」「だいじょうぶ。真っ暗にならないうちに帰ってくる。」ものすごい勢いで請け合うのでサブザックとお金を渡して頼んだ。「じゃ、大変だけど、できたら四本買ってきてくれ。」と。張りきってとび出して行ったチュトリ君は八時頃五本のビールを背負って帰って来た。私たちの拍手に迎えられて。――次の日の昼過ぎ、撮影現場の見物にやって来たチュトリ君が「今日はビールは要らないのか。」と聞く。前夜のあの冷えたビールの味がよみがえる。「要らないことはないけど、大変じゃないか。」「だいじょうぶ。今日は土曜でもう学校はないし、明日は休みだし、イスタルをたくさん買ってきてあげる。」STARというラベルのネパールのビールを現地の人びとは「イスタル」と発音する。うれしくなって昨日より大きなザックと一ダース分以上ビールが買えるお金を渡した。チュトリ君は昨日以上に張りきってとび出して行った。ところが、夜になっても帰って来ないのである。夜中近くになっても音さた無い。事故ではないだろうか、と村人に相談すると、「そんな大金を預けたのなら、逃げたのだ。」と口をそろえて言うのである。それだけの金があったら、親の所へ帰ってから首都のカトマンズへだって行ける。きっとそうしたのだ、と。十五歳になるチュトリ君は一つ山を越えた所にある、もっと小さな村からこの村へ来て、下宿して学校に通っている。土間の上にむしろ敷きのベッドを置いただけの、彼の下宿を撮影し話を聞いたので、事情はよく知っているのだ。その土間で朝晩チュトリ君は、ダミアとジラという香辛料を唐辛子に混ぜて石の間にはさんですり、野菜と一緒に煮て一種のカレーにしたものを飯にかけて食べながらよく勉強している。暗い土間なので、昼も小さな石油ランプをつけてベッドの上に腹ばいになって勉強している。そのチュトリ君が、帰って来ないのである。明くる日も帰って来ない。その翌日の月曜日になっても帰って来な∵い。学校へ行って先生に事情を説明し、謝り、対策を相談したら、先生までが「心配することはない。事故なんかじゃない。それだけの金を持ったのだから、逃げたのだろう。」と言うのである。
 ――歯ぎしりするほど後悔した。ついうっかり日本の感覚で、ネパールの子供にとっては信じられない大金を渡してしまった。そして、あんないい子の一生を狂わした。でも、やはり事故ではなかろうかと思う。しかし、そうだったら、最悪なのである。いても立ってもいられない気持ちで過ごした三日目の深夜、宿舎の戸が激しくノックされた。すわ、最悪の凶報か、と戸を開けるとそこにチュトリ君が立っていたのである。泥まみれでヨレヨレの格好であった。三本しかチャリコットにビールがなかったので、山を四つも越した別の峠まで行ったという。合計十本買ったのだけれど、転んで三本割ってしまったとべそをかきながらその破片を全部出して見せ、そして釣銭を出した。彼の肩を抱いて、私は泣いた。近頃あんなに泣いたことはない。そしてあんなに深く、いろいろ反省したこともない。

(吉田直哉「ネパールのビール」)