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課題集 ムベ3 の山

○自由な題名 / 池新
○風 / 池新

★冬のパリは / 池新
 冬のパリは、灰色の暗い空におおわれる。その下を、毛皮のオーバーを着こんだご婦人たちが体つきの小さな犬を連れて歩いていく。犬にも胴まわりに毛皮で編んだものを着せたりして、かわいい。
 そこには、しかし、一つのはっきりしたヨーロッパ人の考えが表されている。犬には保護を加えるが自由な意志は認めない。犬にひもをつなぎ、そのはしをしっかりにぎって、犬を連れて歩くのが人間というものであり、犬に引っぱられて歩くのでは人間とはいえない。大きい犬だと、この点うまくいかないし、だいいちパリのようなアパート生活では、飼いにくい。
「お母さん、今あなたはお子さんの手を引いていますか。警視庁」などという、まことに親切な看板が東京都内のあちこちに立っている。小さな子供は、たしかにパッと衝動的に往来へと飛び出したりする。母親が魚屋や八百屋の店先で、買い物に目の色を変えているときなどとくに危ない。つまり、小さな子は子犬みたいなものだ。
 犬なら、ひもでつなぐのが、いちばんである。それが最も確実安全で、子供を死地に追いやることもなく、親も保護監督の義務をちゃんと果たすことができる。つまりは、子供のため、親のため、ということになる。
 パリの若い母親は、これを実行している。ちょこちょこ歩きはじめたわが子に「腰なわ」を打ち、自分の胴体にそのひもをくくりつけて買い物をする。いかに目をはなし、おしゃべりに夢中になろうとも、子供には一、二メートルの行動半径しか自由がないわけだから、ぜったいに安心である。したがって、パリには警視庁のような看板は立っていない。
「かわいそうで、そんなこと、とってもできないわ。」と日本のお母さんがたはおっしゃるにちがいない。そこにはヨーロッパと日本の文化の差、有畜農業と無畜農業の差が横たわっている。ヨーロッパ人は長い間、家畜を大切に飼い、農耕に使い、そして殺して食べることによって生きてきた。家畜なしには、そもそも生活が成り立たなかった。
 家畜のように理性を持たぬ生き物を人間、ないしは人間社会のルールに従わせるには、体でおぼえさせるほかはない。この家畜飼育法が、幼い子供へのしつけにも応用されている。∵
「おはようございます。」というまでは朝ごはんを食べさせない、道にすてたゴミを自分でひろってゴミ入れに入れるまでは自由を与えない、といったしつけが、日常茶飯事として、おだやかに、しかし、きびしくくり返される。
 それでも言うことをきかなければ、人前だろうとなかろうと、遠慮会釈なく、おしりをたたく。なおだめなら、最後は裁判所にうったえ出る。すると、裁判長は、理由の如何を問わず子供に対する逮捕状を出し、少年院に強制収容する。一九七〇年までのフランスがそうであった。
 ラッシュアワーは別として、昼どきの日本の電車内は、子供の遊園地と化す。子供たちはのびのびと電車内で徒競走に興じ、つりかわでブランコを楽しむ。母親は子供に、次から次へと食べ物を与えている。幸せな光景である。日本は無畜農業の国だから、家畜や子供を威厳をもってたたき、しつけながら愛情をもって育てるという考え方がない。日本は昔から子供に対するしつけがあまかったようである。稲や白菜をむちでたたいてみても、どうなるものでもない。育てるコツはただ一つ、ひたすらこやしをかけることだけだ。
 ヨーロッパの子供が子犬なら、日本の子供は稲か白菜である。だから、母親は車内で子供をしかることもなく、アメだのチョコレートだのを与えている。あれはせっせとこやしをかけているのだ。土のにおいに満ちた民族の遠い記憶が、そうさせるのにちがいない。

(木村尚三郎しょうざぶろうの文章より)