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課題集 ムベ3 の山

○自由な題名 / 池新
◎石 / 池新
★けんか、テスト、私の名前 / 池新

○どんなときにイヌは / 池新
 どんなときにイヌは怒るのかといえば、まず自分の縄張りに侵入されたときである。たとえば、ボールが生垣の下からよその家の庭に転がり込む。それを取りに庭へ入り込んで、もしそこにイヌがいたら、帰りがけに、後ろから尻を咬まれるだろう。その家が留守ではなく、イヌにはボスにあたる飼い主がいたら、いつもは臆病なイヌでも攻撃的になって当然である。
 警察犬や軍用犬用に特別に訓練されたイヌは別だが、イヌにとって人間を襲うことは、かなりの勇気のいる行為である。たとえ相手が小学生であっても、目の位置はイヌよりも上にある。イヌは家畜として人間と一緒に暮らしてから一万年以上も経ってはいても、その目に映るホモサピエンスは、大きな動物に見えるはずである。目の位置からの判断では子どもだって月の輪熊よりは大きい。したがって、イヌが人を咬むのは、せっぱ詰まっての反撃なのであり、原因のほとんどを人間のほうが作っている。
 イヌが怒りを爆発させて、攻撃を仕かける前には、まず警戒のボディランゲージを見せる。背なかの毛を立て、四肢を踏ん張って、尾を小刻みに振るのは、相手を警戒している証拠である。気が弱いイヌなら、このとき口を上にむけて吠えたてる。吠え声は仲間に援助をもとめるためのものである。
 気の強いイヌほど、この警戒から怒りへの移行は早い。尾をぴんと立て、歯をむきだしにして、唸り声をだしたら危ない。このときの耳は後方に引かれて伏せられている。この怒りを無視して近づいたら咬まれることになる。
 人間でも親しい人は別として、赤の他人が、ある一定の距離を超えて近づいてきたら不快感を持つ。満員電車がその好例だ。われわれが満員電車に乗れるのは、社会の通念という、ひとつの約束事を理性が知っているからである。だから同じ電車の同じ車輌という空間でも、ガラガラに空いているとき、なぜか赤の他人が自分に∵接近して、服と服が接触する距離まできたら、普通の神経の持ち主なら不安感を抱くだろう。相手がこわそうな男なら、不安はすぐ恐怖に変わると思う。
 動物学会ではこの不快感を持つ距離を臨界距離というわけだが、イヌにも当然、この距離がある。相手が親愛の意を示さずにこの距離の中へ踏み込めば、イヌの感情が不安、警戒、怒りと移行していくのは不思議ではない。
 うっかり臨界距離まで近づいたら、どうするか。そんなときは、さりげなく距離を広げるのが良い。あわてて駆け出すとイヌの狩猟本能を刺激して追いかけられる。中型犬だと百メートルを七秒以内で駆けるから、ルイスだってジョイナーだって逃げきれるものではない。イヌの目を絶対に見ないようにして、静々と退却するのが賢明な策なのである。
 イヌを座らせて叱言こごとをいったことのある人は知っていると思うが、叱言こごとをいわれているイヌは絶対といっていいほど、人の眼を見つめないものである。イヌにとって視線を合わせるのは挑発を意味するからである。これ以上、叱言こごとをいわれたくないイヌは視線をそらすわけだ。したがって、警戒態勢でいるイヌをみつめたらイヌは怒りだす道理である。

(沼田陽一「イヌはなぜ人間になつくのか」)