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課題集 ミズキ3 の山

○自由な題名 / 池新


○いつのことだったか、 / 池新
 いつのことだったか、教育熱心で知られている友人の歯科医がうかぬ顔をしているので、どうしたのかと尋ねたら、日曜日に子供をダムのある山に連れて行ったところ、子供がそこに満々とたたえられている水を見て、「うちの台所に出てくる水には色がないのに、ここの水はどうして青いの。」と質問してきた。そこで、「海の水を見てごらん。青いだろう。水はたくさんになると青く見えるようになるのだよ。」と教えたら、「水はたくさんになると、どうして青く見えるの。」と反問してきた。これにはぐっとつまって、うまく答えられなかったので、ひどく面目をつぶしたということだった。実は、科学というものは、このように疑問を持ち、その疑問を解決しようとするところから始まるのである。
 さて、その人間のいだく疑問であるが、われわれの祖先がいだいた程度の疑問の数々は、科学の進歩につれて、しだいに解きほぐされ、今日いまだにかたづかないなどというものはそんなにたくさんはない。それでは、現在のわれわれは、祖先の人々のようには疑問をいだかないかというと、実はそうではなく、今日われわれがいだいている疑問は、その数においても何千年も前の時代とは比較にならぬほど多いし、その内容・程度も大きく変わってきているのである。
 人間は、もともと知ることを求めるものであるから、一つの疑問をいだくと、それを解こうとして、観察・実験などの手段に訴え、思考を繰り返すといった努力を重ねて、ついにはその疑問を解決するのである。そして、知ることの楽しさ・うれしさに大きな満足を覚えるのであるが、それと同時に、さらに新しい期待に心をはずませるのである。というのは、最初の疑問を解決するまでの過程あるいは結果において、必ずさらにいくつかの新しい疑問が生まれ、初めの疑問が解決したあとも、これらの新しい疑問の多くは、初めのそれよりさらに高度のものであるが、新しい別のものである場合も少なくない。
 このように考えてくると、科学というものは、疑問の積み重ねの上に進歩してきたと言える。つまり、疑問のない所に科学の進歩はないのである。だから、われわれが、自然現象なり社会現象なりについて疑問をいだかないということは、決して喜ぶべき状態ではない。それは、科学の進歩を止めてしまうことを意味するからである。
 思うに、疑問を持たないというのは、すべてのものを知り尽くしてしまって、何一つわからないことがない場合か、あるいは何もわ∵からなくて、わからないことがわからないといった状態であるかのいずれかである。この世の中に、複雑で、おくゆきの知れない自然や社会のすべてを知り尽くした人などがいるはずはないから、もし疑問を持たない人がいたとしたら、その人は進歩することを捨ててしまった人である。いろいろな事物や現象について次々に疑問をいだくのは、その人が進歩している証拠である。
 要するに、科学的であるということは、一面、疑問を解決し、疑問を減らすことでありながら、多面、疑問をふやすことでもある。われわれは、いくつになっても、絶えず疑問を持ち続け、その疑問の解決に向かって努力したいものである。なぜならば、そのことはその人の進歩・成長につながるばかりでなく、人間の社会の幸福と発展にもつながるからである。

○■ / 池新