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課題集 ミズキ3 の山

○自由な題名 / 池新
○実力主義はよいか悪いか / 池新
○宿題はよいか、私の長所短所 / 池新
○私は、懐中時計を / 池新
 私は、懐中時計を打紐うちひもでズボンのベルト通しに結わえつけておくのが習慣になっていたが、どういう弾みか紐が切れているのに気が付かず、時計を道路に落とした。時計に対してこのような無作法をしたことはほとんどなかった。若いころに、ズボンの隠しに入れたまま鉄棒に飛びつき、尻上がりをしてガラスを割った記憶はあるが、多分それ以来の失敗であった。
 何度も振って耳にあててみたが鼓動は止まったままだった。その日宿へ戻る時にその時計屋へ持っていった。自分で落としておきながらこんなことを言うのは心苦しいけれどもなるべく急いで修繕を頼んだ。すると主人は裏側のふたを開け、心棒が折れているのを確かめながら、急いでやるけれども、同じ心棒が手元にないので四日はもらいたいといった。心当たりの仲間の時計屋に連絡をして、そこにあればいいが……。
 その時私は今向かいの宿屋に仮住まいをしていることを話すと、それは困るだろうと言って腕時計を貸してくれた。銀めっきが剥げて古いものだが、時間は正確だから、その間使ってくれと、遠慮する私に貸してくれたのだった。借り物の時計をなれない手首にはめて気になって仕方がなかったが、時計屋の好意が嬉しかったし、実際に大助かりだった。
 今から三十数年前である。
 小さい時計屋の店には、さまざまの形の掛け時計があったが、その幾つかは振り子が動いていた。それは売り物ではなく、一応修繕を終えてから調子を見ている預かり物であった。退院前に大事をとって様子を見られている回復期の連中であった。
 その振り子の動き具合を見ていると、いかにもせっかちや、ゆったり構えているのやらいろいろいて、時計の性格がよく分かって面白かった。これらの時計と一緒に寝起きしている時計屋の主人が、それをどう感じているかちょっと尋ねてみたいような気持ちがあったのだが、別に親しくもなく、今店に来て話をしたばかりの人にそんなことを尋ねるうまい言葉も思いつかないままに黙っていた。∵
 四日後に寄ってみると私の懐中時計は修繕ができていた。重宝した腕時計を返して自分の時計を受け取った時に、主人の右手の黒光りしている柱に八角形の柱時計が掛かっているのを見た。四日前に来た時にも同じ柱にあったのかも知れないが、気が付かなかったらしい。
 腕時計を貸してくれた好意に対して何かこの店で買い物をしたい気持ちもあったが、それをあまり露骨に見せるのもいやで、何の意味もないように、それが売り物かどうかを聞いてみた。
 それは想像したとおり時計屋の時計であった。しかも大切な時計であるのが分かった。その主人が生まれた時に、時計屋でもなかった彼の父親が、別にその記念にというつもりでもなかったのだろうが買ったものだということだった。ぜんまいは幾度か取り換えたが、ずっと動いているそうだった。そしてこんなことも話した。
 この時計は、子供のころには台所の柱に掛けてあって、ガラスが曇って黄ばんでくると、踏み台に乗ってそれをくのが自分の役目だったし、時計屋に奉公するようになってから、また自分で店を出すようになってからはなおさらのこと、これだけは絶対に狂わせないように気を配ってきたそうである。
 そこまで深い結びつきができてしまうと、この柱時計が止まる日に自分の寿命も尽きるというような気がしてくるのではあるまいか、あるいはこの時計に自分の運命が左右されている感じを常に抱くようになるのではないか。そんなことを私はとっさに思ったが、無論それは口にしなかった。

(串田孫一まごいち『柱時計』)

○■ / 池新