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課題集 ミズキ3 の山

○自由な題名 / 池新
○学歴社会 / 池新

○〔「わたし」はサワンという / 池新
〔「わたし」はサワンというがんを飼っている。ある夜、サワンは屋根に登り、空を飛ぶ三羽のがんと鳴きかわしていた。〕
 わたしはサワンが逃げ出すのを心配して、かれの鳴き声に言葉をさしはさみました。
「サワン! 屋根から降りてこい!」
 サワンの態度はいつもとちがい、かれはわたしの言いつけを無視して、三羽のがんに鳴きすがるばかりです。わたしは口笛を吹いて呼んでみたり、両手で手招きしたりしていましたが、ついにたまらなくなって、棒ぎれで庭木の枝をたたいてどならなければならなくなりました。
「サワン! おまえはそんな高いところへ登って、危険だよ。早く降りてこい。こら、おまえどうしても降りてこないのか!」
 けれどサワンは、三羽の僚友たちの姿と鳴き声がまったく消え去ってしまうまで、屋根の頂上から降りようとはしなかったのです。もしこのときのサワンのありさまをながめた人があったならば、おそらく次のような場面を心に描くことができるでしょう。
 ――遠い離れ島に漂流した老人の哲学者が、十年ぶりにようやく沖を通りすがった船を見つけたときの有様――を人々は屋根の上のサワンの姿に見ることができたでしょう。
 サワンがふたたび屋根などに飛び上がらないようにするためには、かれの足をひもで結んで、ひもの一端を柱にくくりつけておかなければならないはずでした。けれどわたしはそういう手荒なことを遠慮しました。かれに対する私の愛着を裏切って、かれが遠いところに逃げ去ろうとはまるで信じられなかったからです。わたしはかれの翼の羽を、それ以上に短くすれば傷つくほど短く切っていたのです。あまりかれを苛酷に取り扱うことをわたしは好みませんでした。
 ただわたしは翌日になってから、サワンをしかりつけただけでした。
「サワン! おまえ、逃げたりなんかしないだろうね。そんな薄情なことはよしてくれ」
 わたしはサワンに、かれが三日かかっても食べきれないほどの多量のえさを与えました。∵
 サワンは、屋根に登って必ずかんだかい声で鳴く習慣を覚えました。それは月の明るい夜にかぎられていました。そういうとき、わたしは机にひじをついたまま、または夜ふけの寝床の中で、サワンの鳴き声に答えるところの夜空を行くがんの声に耳を傾けるのでありました。その声というのは、よほど注意しなければ聞くことができないほど、そんなにかすかながんの遠音です。それは聞きようによっては、夜ふけそれ自体が孤独のためにうち負かされてもらす嘆息かとも思われ、もしそうだとすればサワンは夜ふけの嘆息と話をしていたわけでありましょう。
 その夜は、サワンがいつもよりさらにかんだかく鳴きました。ほとんど号泣に近かったくらいです。けれどわたしは、かれが屋根に登ったときにかぎってわたしのいいつけを守らないことを知っていたので、外に出てみようとはしませんでした。机の前にすわってみたり、早くかれの鳴き声がやんでくれればいいと願ったり、あすからはかれの羽を切らないことにして、出発の自由を与えてやらなくてはなるまいなどと考えたりしていたのです。そうしてわたしは寝床にはいってからも、たとえばものすごい風雨の音を聞くまいとする幼児が眠るときのように、ふとんを額のところまでかぶって眠ろうと努力しました。それゆえ、サワンの号泣はもはや聞こえなくなりましたが、サワンが屋根の頂上に立って空を仰いで鳴いている姿は、わたしの心の中から消え去ろうとはしませんでした。そこでわたしの想像の中に現れたサワンもかんだかく泣き叫んで、実際にわたしを困らせてしまったのでありました。

(井伏鱒二『屋根の上のサワン』)

○■ / 池新