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課題集 ミズキ3 の山

○自由な題名 / 池新
○ライバルはよいか悪いか / 池新

○人生八十年時代と / 池新
 人生八十年時代と言われる昨今だが、八十年と言えばずいぶん長いような気もするものの、月に直して九六〇か月と言えば、それっぽちか、と思う。単位をさらに細分化すると一生は二万九〇〇〇日であり、四千週であり、七十万時間、二十五億秒ということになるが、さて、あなたはこのうちどの単位で測ったのが長くて、どれが短いとお感じになるだろうか?
 どれも同じ長さでありながら、単位によって受ける感じがひどく異なるところが不思議なところだ。よく、同じ長さの平行線の両端に一方は外向き、他方は内向きの矢印を付けると、両者は同じ長さには見えなくなるというのがあるが、あれに似てなくもない。
 こうした時間感覚を実生活に応用するとすれば、期待に胸をふくらませて待つ刻限と、できるだけ先に延ばしたいと思っている刻限とでは、単位をちがえて待つのが幸福な処し方と言えよう。
 一方また自分の「人生経過時間」を日数で数えることもできるわけで、誕生日の他に「生まれて一万日目」とか「二万日目」とかを自分なりに数えてみれば、年数単位によってぼかされてきた一日一日の重みがどっしりと感じられるのではなかろうか? ちなみに前者は二十七歳の時、後者は五十四歳の時におとずれる。
 以上は個人の時間に関する話だが、次に「世代」の話をすると、(一世代を約三十年とすれば)たとえば「織田信長は、われわれ現代人の十三世代前の人物である」といった言い方が可能となる。十三世代と言えば、手を伸ばせば届きそうな時間的距離ではなかろうか? 歴史の中から信長本人がヌッと顔を出しそうな、そんな実在感が感じられる数字である。
「四百年前」と言ってしまうから歴史上の人物になってしまうだけで、世代で数えればさほど昔の人ではなかったということだ。
 さらに時代をさかのぼって源頼朝を例にとってみても、この人物にしてからが二十六世代前。だいたいが、西暦制定の基準となったイエス・キリストだって六十六世代前なのである。
 歴史書などを読んでいる間は、キリストやそれと同時期の弥生時代など太古の昔のような気がするが、これとても、親子孫だけですでに三つを数える「世代」を六十いくつか数えるだけで手がとどいてしまう時代なのだ。
 こうした例はいずれも、一定の単位でしか考えたことのない事柄を、それとは別の単位に置き換えたら新鮮に見えた例で、こうした∵ことは時間以外にも当てはまる。その一例として、体重の話をしてみよう。
 唐突で恐縮だが、あなたは体重が何グラムおありだろう? 私は七万グラムだ。つまりは七十キロなのだが、グラム表示をすると私の頭には二つの連想が働く。
 一つは、新生児との体重比較である。赤ん坊の体重は三千七百とか二千九百とか、たいていグラム表示である。私自身は生まれたときに三千五百だったと聞いているので、その時の二十倍に成長したことになる。こうした比較は同一単位でこそ容易にできる。それにしても、子どもの体重はどのくらいからキロ表示に変わるのだろう?
 もう一つの連想は、やや陰惨でグロテスクである。
 グラム表示を聞くと私の頭には肉屋の店頭の光景が浮かび、自分が肉牛にでもなったような気がするのである。なぜこういう連想が働くかと言えば、もちろん、肉牛の売買がすべてグラム単位だからである。
 以上のように、単位の変換は、容易に日常性からの脱却を呼ぶ。最後に一つ、私からの質問。
「今度の日曜日はあなたにとって生まれて何度目の日曜日ですか?」

○■ / 池新