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課題集 ミズキ2 の山

○自由な題名 / 池新

★清書(せいしょ) / 池新

○本というのは最も古い / 池新
 【1】本というのは最も古い情報伝達システムではあるけれども、それだけに限界もある。読み手が、印刷された黒点を活字化された言葉として受けとる、言いかえるとその内包するものを頭の中に生きた記号、あるいは映像として再生させる能力がなければ、それは何一つ訴える力がないということである。【2】映画やテレビならば、こちらが何をしないでも映像を与えてくれるし、音楽は音を聞かせてくれる。つまり人が完全な受動的状態にいても働きかけてくるが、書物だけはそうはいかない。【3】こちらが能動的状態になって能力を働かせないと、向うからは何も訴えてこない。そこが映画やテレビや音楽と違うところで、読書という行為は人間の能動的能力を要求する、つまり高等なメディアなのだ。
 【4】と、小難しい理窟はそれくらいにして、とにかく自分自身の過去における本との付き合いを思い起こしても、とにかくたのしいとか得をするとかがなければ本を読まなかったのはたしかだ。【5】そしてたのしい読書というときぼくがまず思いつくのは漱石の『坊っちゃん』である。
 【6】ぼくがこの本を最初に読んだのが何歳のとしだったか覚えていないけれども、たぶんそれは昔の小学校の高等科(小学六年を終了後入って二年間ソロバンや何かを学ぶコース)に入ったころだろうと思う。すなわち十三か十四のとしだ。【7】そのころぼくはもう、山中峯太郎の『敵中横断三百里』だの、当時の少年たちの血を湧かせた『亜細亜の曙』『大東の鉄人』だの、南洋一郎の『吼える密林』だのといった少年向け冒険小説にそろそろ倦きてきて、もう少し大人っぽいものが欲しくなりだしていた。【8】そしてその一番初めの試みとして読んだのが岩波文庫の『坊っちゃん』だった。
 岩波文庫という、高校生や大学生が読む文庫を買うというそのこと自体が、どんなに少年の心をときめかせたことか。【9】当時は文庫といえば岩波文庫で、これは高級な知的世界そのものであった。せかせかと、しかし一足跳びにその世界に足を踏み入れることは、だから身の慄えるような興奮を与えるそれは出来事だった。
 【0】初めて大人の読み物を読むという緊張があったに違いない∵が、ルビ(振り仮名)も振ってあるし、これは読んですぐわかった。しかも実に面白かった。ぼくは今でも漱石が好きだが、それはこの最初の出会いが幸福な彩りにつつまれていたせいではないかと思う。最初の印象は、人間どうしの付き合いでもそうだが、しばしば決定的な作用をする。『坊っちゃん』の面白さ、それは何よりもまずその語り口の面白さであった。率直で、気取りも飾りっ気もなくて、自分の手の裡をすっかりさらけ出しながらテンポよく語る。それは、荘重ぶった、誇張と気取りの多い、大袈裟な語り方をする少年冒険小説しか知らなかった少年には、目の覚めるような新鮮な体験であった。(中略)
 それはまったく自分のまるで知らなかった語り口、明らかにまるでレベルの違う、高尚で率直で正直な語り口であった。しかもこの率直で、ありのままに自己を見ることのできる主人公の性格のなんと魅力的なことだったろう。少年冒険小説の主人公はみな英雄で、荘重で、重々しく、めったに心のうちをのぞかせないが、この『坊っちゃん』は自分の弱み、欠点を正直にあかし、負けじ魂だけでつっぱっていて、結局は狡賢い連中に負けて退散する。にもかかわらず、読後、勝ったのは真正直なこの坊っちゃんと山嵐との方であるような感じを与え、人間には外観の勝敗とは違うレベルの勝敗があることを知らせるのだ。そして清やが言う「坊っちゃんは正直なお方だ」という言葉の意味が、われわれにもストンと腹に落ちてくるのである。
 なるほど本当の小説とはこういうものか、とぼくは思った。小説はわれわれのものの見方を変える。違う価値がこの世にはあることを教え、そういう世界に向って目を開く。こうして『坊っちゃん』は読んで愉快なだけでなく、いわば精神の世界とでもいうべきものにぼくの目を開いてくれた最初の小説になったのだった。

(『生きることと読むことと「自己発見」の読書案内』中野孝次)