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課題集 メギ3 の山

○自由な題名 / 池新
○ひとりでいることと友達といること / 池新
★清書(せいしょ) / 池新

○それにしても、五億冊というのは / 池新
 それにしても、五億冊というのはおどろくべき数字である。世界広しといえども、これだけの量の本がつくられ、そして消費されている国は、そうたくさんはない。おそらく、日本人は、世界中で最もよく本を読む民族なのである。
 そして、つくられ、消費される本の量以上に注目すべきことは、このように大量の書物が日本では家庭の中にまでとけこんでいるという事実である。四人家族で年に十二冊、五年で百冊、とにかくちょっとした「蔵書」が、たいていの家庭でできあがっているのだ。
 もちろん、西洋の家庭にも多少の書物がないわけではない。しかし、わたしの見たかぎりでは、ふつうの家庭の場合、書物はたとえば暖炉のうえに数札の小説がのっている、という程度のものであって、何十冊も何百冊もが本棚を埋めているのは、かなり知識人の家庭にかぎられている。
 実際、家庭用の本棚をこんなに多種類とりそろえて家具売り場で売っている国は、世界でおそらく日本だけだ。アメリカでもヨーロッパでも、もし家庭用の本棚というものがあるとすれば、せいぜい、サイドボードぐらいのものであって、数十冊を収容することなど、とうていできそうもない。本棚は、よほど特殊な場合は別として、家庭の標準備品ではないのである。
 ところが、日本の家庭にはたいてい本棚がある。規模の大小は別として、ともかく「蔵書」がある。たとえば書斎はなくても、廊下のつきあたりとか居間の壁ぎわとかに本棚があり、全集ものがならんでいる。それが平均的な日本の家庭の風景なのだ。書物のない家庭は日本にはない。
 これと対照的に西洋の家庭で気がつくのは、やたらに大型のグラフ雑誌などがゆきわたっているという事実だ。どこの家に行っても、アメリカなら、たとえば『ライフ』のような雑誌が居間の机の上に、必ずといってよいほど積み重ねてある。しかし、それは日本の家庭ではあまり見かけない風景だ。事実、日本のグラフ雑誌は、だいたいお医者さんや床屋さんの待合室の備品であって、家庭の備品にはなりにくいのである。
 それでは、書物を備品とする日本の家庭とグラフ雑誌を備品とする西洋の家庭とは、どうちがうのだろう。第一にいえることは、グラフ雑誌がその読まれ方、あるいは見られ方において集団的であるということだ。居間のソファに腰をおろして、主婦がグラフ雑誌を∵開いているとき、夫や子どもは、それに「参加」することができる。グラフは、一種の絵本のようなものだから、それをのぞきこんでいっしょに見ることができるのだ。ちょうどそれはテレビを見ているようなもので、集団的なものである。
 だが、書物となると、そういうわけにはゆかない。書物はひとりで読むものである。のぞきこんでいっしょに読むことは難しいし、第一、そんなことをされたら落ち着かない。たとえすぐそばにだれかがいても、読書というのは孤独な個人の行為なのである。
 だから、日本の茶の間では、たとえば、主人が経営学の本を読み、主婦は文学全集を、子どもはマンガを、それぞれに黙って読んでいる、といったような風景が出現する。一冊のグラフ雑誌をかこんで、家庭の全員が集団的になにかを見るのではなく、家族のそれぞれが、それぞれの本を通じて、それぞれの世界に没入している――それが日本の家庭における読書風景なのだ。
 いささか飛躍するようだが、これはことによると、日本の住居に個室がないことと関係しているのかもしれない。どこにいても、家族と顔をつきあわせていなければならないのだから、せめて本でも読んで、自分だけの精神の個室をつくりたい、という欲求が生まれるのである。ひとりひとりが個室をもっている西洋人が、居間のグラフ雑誌をかこんで集団的な世界をたのしむのに対して、もともとがべったりと集団的な日本の家庭では、書物によって、個室的な世界を求めようとするのだ、といってもよい。いつだったか、三畳ひと間に六人というひどい住宅環境を紹介するテレビ番組を見ていたとき、この六人の家族が、みな肩を寄せあって、それぞれに本を読んでいた情景にわたしは打たれたことがある。
 現実に個室が十分でないとき、人は、心理的な個室を、読書という方法で手に入れることができるのである。

(加藤秀俊「暮しの思想」)