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課題集 メギ3 の山

★会話で基本的なのは、/ 池新
 会話で基本的なのは、自分の考えや感情をうまく伝えることだ。もし会話に「秘訣」というものがあるとすれば、それはこの点にある。自分の考えと感じたことを口に表せて、はじめてあなたはその会話に加わっていると言える。
 このことは常識と言えるけれども、実際の会話では実行できなくて、だから会話が生気を帯びてこない。反対に私たちは自分の考えや感情を隠して喋ることが多くて、いつの間にか、自分の考えや感情を口に言い表せなくなっている。そういう傾きがある。自分はどう感じるか、自分はどう考えるか――これが会話意識の中心であるべきなのに、相手はどう感じているのか、どう考えているのか――この方向に意識が働きがちなのである。
 自分の考えや感じたことを言い表すことは欧米の会話の原則だが、この明るい原則の裏側にある意識も彼らは十分に開拓している。すなわち、自分の考えを表明するのではなくて隠すために喋るという意識である。
「欺そうとして黙っていることと、欺そうとしてしゃべくること―この両方を見わけねばならぬ。」とヴォルテールは言っている。
 私たちの間では、「都合の悪いことは言わない」という会話常識がある。欺そうとして、黙っているという方向だ。それほど意識的でなくとも、黙っていることで隠そうとする傾きがある。しかし西洋の会話では、相手が黙る時はなにか隠していると勘ぐることが多い。そこで逆に積極的に嘘を喋って本当のことを隠そうとする。時にはそれが人の習性となることもある。それでヴォルテールはまた言っている――「人は自分の本当の考えを隠すためにのみ会話を用いる。」と。
 実際、たいていの人々は互いの本当の考えや気持ちを隠して喋りあい、それを会話と呼んでいるとも言える。そんなやり取りが大部分を占めるのかもしれない。しかしそんな浅い層をもって会話を代表させたり、その層での技術や喋り方を教習したりするのは、本書の目的ではない。やはり、「自分の心を開いて語る人こそ、あなたを喜ばす人だ」というジョンソン博士の言葉を第一としたいが、そこに至る前にまあもう少しこの浅い層の会話相を語ろう。
「人の頭脳は、ひとつのことを言いつつ他のことを考えるくらい、∵わけのないことなのだ」(ピュブリリウス・シルス)
 これはすでにローマ時代の発言であり、以来、西欧の知性人は、考えることと口にすることとの分裂を意識しつつ現代に至っている。私たちと比べて彼らはずっと、思ったことをすぐ口にする傾向なのだが、それでも思ったことを口にして人を傷つけることには、彼らなりに用心する。
 私たちは「思わず口が滑った」と言う。英語ではそれをa slip of the tongueと言い、ともに「滑る slip」で一致しているのは面白い。心に隠しておいた考えがつい口に出てしまう時、私たちはそれにかなり寛大であり、ゆるしたり無視したりするが、欧米人の会話では、そのスリップを許さないことが多い。その場で追求するか、憶えていてあとでトッチめるかする。彼らの心は一般に鋭く働き、批判的な見方をしがちだ。それを剥きだしに言えば相手の感情を傷つけると知っていながら、なかなか舌の働きを押さえられない。
「会話の秘訣はなにか――自分の言うべきことを心得るという点ではなくて、自分の言ってはならぬことを心得ておくという点である」(無名氏)
 こんな言葉が戒めとなるのも、彼らの口が滑りがちだからで、自分の考えを伝えるにしろ、隠すにしろ、とにかく喋るのである。その気持ちだけは押さえられない。当然に、言ってはならぬことへの自制を欠いてスリップしがちなのだ。
 このことは私たちの側から考えるとさらに明瞭になる。
 私たちは言ってはならぬことを意識しすぎて自制し、その結果、だまりがちとなり、会話が活発にならず、それで互いが退屈する。そういう傾向のほうがつよい。会話では上下の関係、家庭では夫婦の間、学校では教師と学生の間、そういう関係にはこの意識がまだ強く残っている。
 私たちは遠慮深さや慎みのかげに隠れて、都合のわるいことを言わずにすます。自分の心にある気持ちを明かさずにすます。知らん∵ぷりをする。相手に忠告することのできる時にも、しないですます。いつしか自分の心を開いて話す習慣を見失ってゆく。こういったネガティブ(否定的・消極的)な面を発達させている。
 それでこの無名氏の「言ってはならぬことを心得よ。」という警句は、私たちには必要でない。私たちは「言ってはならぬこと」を忘れようとすべきだ。なぜなら意識的にせよ無意識的にせよ、私たちは常にこの警告を念頭にもつからだ。むしろ「言ってはならないこと」という心の枠を大はばに取り去っても、毒念さえなければ相手を傷つける恐れがないのだ。
 まずそういう心のなかの「枠はずし」によって、生きた会話の復活にむかいたい。
 私たちの「口をつつしむ」心は美徳から来ている。私たちのほうが外国人よりもずっと会話の礼儀をわきまえ、自我を押さえる自己訓練ができている。調和を考え、遠慮し、用心深く、相手にいやな思いをさせまいとする。そういう社会的訓練もできている。社会的に洗練されていて、時には(彼らの目から見ると)痴呆的なほど自己主張や自己顕示の欲望を表に出さない。私たちのこういう心性の高さは彼らには分からない。分からせるには、私たちはうんと喋って彼らにそれを知らせるほかないという矛盾が生じる。
 彼らに私たちの礼儀や心くばりを態度で伝えることはとても不可能であり、仕方がないのでこちらが彼らのほうにおりてゆく。お喋りの仲間に加わるほかない。そして彼らの「会話」に加わるとなれば、それは町の「英会話学校」での会話よりももっと率直な「会話」となるべきなのだ。そしてここまでくると、かえって、私たちの会話は上質なものとなるだろう。なぜなら、調和や慎みぶかさと率直な明快な表現力が融合して、それこそ「会話」をする人の大きな魅力がそこに発揮されるからだ。

(加島祥造しょうぞう「会話を楽しむ」)