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課題集 メギ3 の山

○自由な題名 / 池新
○雪や氷、なわとび / 池新

★その日は土曜で、 / 池新
 その日は土曜で、俊亮が帰ってくる日だった。お民と次郎は、めいめいに違った気持で彼の帰りを待っていた。
 次郎は薪小屋に一人ぽつねんと腰をおろして考えこんでいた。そこへ、お糸婆さんと直吉とが、代わる代わるやって来ては、お父さんのお帰りまでに、早く何もかも白状したほうがいい、といったようなことをくどくどと説いた。もうみんなも、次郎を算盤の破壊者と決めてしまっているらしかった。
 次郎は彼らに一言も返事をしなかった。そして、父が帰って来て母から今日の話を聞いたら、きっと自分でこの小屋にやって来るに違いない。その時何と言おうか、と考えていた。
(何でおれは罪をかぶる気になったんだろう。)
 彼はその折の気持が、さっぱりわからなくなっていた。そして、いつもの押しの強さも、皮肉な気分もすっかり抜けてしまった。彼は自分で自分を哀れっぽいもののようにすら感じた。涙がひとりでに出た。――彼がこんな弱々しい感じになったのはめずらしいことである。
 ふと、小屋の戸口にことことと音がした。彼は、またかと思って見向きもしなかった。だれもはいって来ない。しばらくたつと、また同じような音がする。何だか子供の足音らしい。彼は不思議に思って、そのほうに目をやった。するとなかば開いた戸口に、俊三が立っている。
(ちくしょう!)
彼は思わず心の中で叫んで、唇をかんだ。
 しかし何だか俊三の様子が変である。右手の食指を口に突っこみ、ややうつ向きかげんに戸口によりかかって、体をゆすぶっている。ふだん次郎の眼に映る俊三とはまるでちがう。
 次郎は一心に彼を見つめた。俊三は上眼をつかって、おりおり盗むように次郎を見たが、二人の視線が出っくわすと、彼はくるりとうしろ向きになって、戸によりかかるのだった。
 かなりながい時間がたった。∵
 そのうちに次郎は、俊三にきけば、算盤のことがきっとはっきりするにちがいない、ひょっとするとこわしたのは彼なのかもしれない、と思った。
「俊ちゃん、何してる?」
彼はやさしくたずねてみた。
「うん……」
 俊三はわけのわからぬ返事をしながら、敷居をまたいで中にはいったが、まだ背中を戸によせかけたままで、もじもじしている。
 次郎は立ちあがって、自分から俊三のそばに行った。
「算盤こわしたのは俊ちゃんじゃない?」
「…………」
俊三はうつむいたまま、下駄で土間の土をこすった。
「僕、だれにも言わないから、言ってよ。」
「あのね……」
「うむ。」
「僕、こわしたの。」
次郎はしめたと思った。しかし彼は興奮しなかった。
「どうしてこわしたの?」
彼はいやに落ちついてたずねた。そしてさっき自分が母にたずねられたとおりのことを言っているのに気がついて、変な気がした。
「転がしてたら、石の上に落っこちたの。」
「縁側から?」
「そう。」
「お祖父さんの算盤って、大きいかい?」
「ううん、このぐらい。」
 俊三は両手を七八寸の距離にひろげてみせた。次郎は、いつの間にか、俊三が憎めなくなっていた。
「俊ちゃん、もうあっちに行っといで。僕、だれにも言わないから。」
 俊三は、ほっとしたような、心配なような顔つきをして、母屋のほうに去った。∵
 そのあと、次郎の心には、そろそろとある不思議な力がよみがえって来た。むろん、彼に、十字架を負う心構えができあがったというのではない。彼はまだそれほどに俊三を愛していないし、また、愛しうる道理もなかった。俊三に対して、彼が感じたものは、ただ、かすかな憐憫の情に過ぎなかったのである。しかし、このかすかな憐憫の情は、これまでいつも俊三と対等の地位にいた彼を、急に一段高いところに引きあげた。それが彼の心にゆとりを与えた。同時に、彼の持ち前の皮肉な興味が、もくもくと頭をもたげた。自分でやったことをやらないとがんばって、母を手こずらせるのもおもしろいが、やらないことをやったと言い切って、母がどんな顔をするかを見るのも愉快だ、と彼は思った。いわば、冤罪者が、獄舎の中で、裁判官を冷笑しながら感ずるような冷たい喜びが、彼の心の隅で芽を出して来たのである。
 彼はもうだれもこわくはなかった。父に煙管きせるでなぐられることを想像してみたが、それさえ大したことではないように思えた。むしろ彼は、これからの成り行きを人ごとのように眺める気にさえなった。そして、今度母に詰問された場合、筋道のとおった、もっともらしい答弁をするために、彼はもう一度薪の上に腰掛けて考えはじめた。
 もうその時には日が暮れかかっていた。小屋はしだいに暗くなって来た。そろそろ夕飯時である。しかし、お糸婆さんも、直吉も、それっきりやって来ない。このまま放っておかれるんではないかと思うと、さすがにいやな気がする。かといって、こちらからのこのこ出て行く気には、なおさらなれない。
(父さんはもう帰ったかしらん。帰ったとすればこの話を聞いて、どう考えているだろう。父さんまでが、もし知らん顔をして、このままいつまでも僕を放っとくとすると、――)
 次郎はそう考えて、胸のしんに冷たいものを感じた。そして、次の瞬間には、その冷たいものが、石のように凝結して、彼をいよいよがんこにした。
(下村湖人「次郎物語」)

○■ / 池新