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課題集 メギ3 の山

○自由な題名 / 池新
○節分、マラソン / 池新
○ひとりでいることと友達といること、緊張したこと / 池新
★トロンボーンのアズモが / 池新
 トロンボーンのアズモが親指をたてて「いけるね」と合図してきた。アズモに答えたとたんに、会場が見えた。観客の一人、一人の顔が見分けられる。
 お母さんは正面の二階席最前列にいた。「あそこにいたか」と克久がちらりと視線をやった。隣りは今朝まだ名古屋から戻っていなかったお父さんだ。久夫と百合子が並んでいるのは意外だった。それから、克久は何かを「あれ」と感じた。そのあれが何なのかは解らないが、二人が初めて並んで座っているのを見たような気がしたのだ。例えて言えば同級生が花の木公園でデートをしているのを目撃したような感じだった。両親はいつもより若々しかった。
 それは一瞬の閃光だった。
 曲名と学校名を紹介するアナウンスが会場に入った。指揮台わきに滑り込むようにたどりついた森勉が、実に素早く息を整えた。アナウンスが終わると同時に、ベンちゃんの息をきらしていた肩は、静かになった。指揮台に上がった時には、数秒前まですばしっこく走り回っていたのがうそのようだ。有木と目が合う。指揮棒が振り上げられた。高く澄んだクラリネットの音が観客をしっかりつかまえた。ティンパニが鳴り響く。
「交響曲譚詩」は無難にこなした。祥子がマリンバの位置に移動するほんの数秒のことだ。会場は水を打ったようだ。再び指揮棒が振り上げられた。
 ティンパニが静かに打ち鳴らされ、チューバなどの低音グループが最初の主題を奏で始めた。克久は真っ直ぐに立っている。立っているけれども、既に身体は音楽の中に吸い取られていた。何か、大きなものに包まれる感覚だった。
 そこにあるものは、目に見えるものではなかった。が、克久は全身で、そこに確かにある偉大なものに参与していた。入るとか加わるとか、そういう平たい言葉では言い表せない敬虔なものであった。感情というようなちっぽけなものではなくて、人間の知恵そのものの中に、自分が存在させられていた。それが参与ということだ。∵
 低音グループが奏でた主題に木管が加わり、音の厚みが増す。やがてティンパニがクレシェンドで響いた。それを木管楽器たちが優しく清らかな歌で迎えた時には、克久の胸の中にあの大きな夕陽があかあかと燃えた。いつも、そこで大きな夕陽が現れる。もちろん、克久はただ音楽に酔っていたわけではない。指揮棒はたえず、音が加わるべき位置の指示を出していたし、拍は正確に数えられていた。部員だけに解る伝令が走り回っていた。それでも、あかあかとした夕陽は決して克久の目の中から消えなかった。夕陽の周囲に見慣れた団地の眺めがあり、それが斜めに射す陽の光を受けて、尊いものとして輝きを帯びた。克久は音の中にそういうものを見ていた。
 曲は長い尾を引いた孔雀の優美な歩みや、青く光る首の動きを表しながら進んでいく。克久はホルンがタタタッタン、タタタッタンと、草原に吹く風の音を奏でる間に、トライアングルをかまえた。ベンちゃんの眉毛が今だと告げる。克久が打ち鳴らすトライアングルの涼やかな音を聞き逃してしまう観客もいることだろう。しかし、それは決して欠くことができない重要なディテールだ。
 一つの重要な仕事を終えた彼は、おごそかな足取りで大太鼓の前に進んで行く。まったく彼の足取りはおごそかとしか言いようのないものだ。たとえ、その足が三カ月以上一度も洗ったことのない上履きをはいていたとしても、重要な儀礼に参与する司祭のおごそかさを邪魔するものではなかった。
 曲はクライマックスをめざし、正確に進行していた。少しも間違いがないとは言えない。小さなミスは、それぞれにすり傷、切り傷となってしみ込んでいたが、痛みを訴える暇はなかった。今、ここだという指示が指揮棒の先から飛んだその瞬間に、克久は大太鼓を一発、十分に抑制して打ち込んだ。もう一発、重要な部分がある。その指示は指揮棒からはこない。ベンちゃんの眉毛がここだぞとその打ち込むべき位置を教えた。克久の一発に続いて、マアさ∵んがシンバルを華やかに響かせた。孔雀がその羽を震わせながら開く時の光そのものが、マアさんのシンバルの音だった。すかさず金管が高らかに孔雀の羽の輝きを繰り広げる。
 金管が華やかに孔雀の大きく広げられた羽そのものを表現した中へ、あの夕暮れの風のようなホルンが通り過ぎていき、ティンパニが最後を力強く締めくくった。次の瞬間、すべての音は完全に消え失せると同時に、威勢をほこった孔雀の姿も消えた。
 四十七人の部員と一人の指揮者がいる。
 拍手が湧き起こるより先に、四十七人の部員は、ただの中学生に戻る。
 克久は中学校を卒業するまでの間に何度となくこの不思議な瞬間を経験することになるが、最初に経験したのはこの時だった。
 夢から覚めるというようなあいまいなものではなかった。この世界には敬虔に参与すべき何かがあることが明快に身体で解る場所がそこにあった。そこから大事なものは隠されてしまっている場所へ戻ったということだ。大事なものは隠されてはいるが、克久はその痕跡をしっかり握っていた。だから、ホールのロビーで久夫から「上手だな」と言われた時、妙にしらけた気持ちになった。久しぶりに見る父親の顔だが、克久はあまりうれしそうな顔はできなかった。
「俺、ちょっと、二発目の大太鼓の入りが遅れたから。まずかった」
「いや、うまいよ。上手だよ」
 久夫に言われるほど、克久はしらけてしまう。そのしらけかたは地区大会で百合子に「小学生とはぜんぜん違う」と言われた時の、それどころじゃないという感じとは違った。久夫に「うまい」と言われるほど、克久の満足した気持ちがにごっていくような感じだった。
(中沢けい「楽隊のうさぎ」)

○■ / 池新