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課題集 メギ の山

★日本のある会社が香港で(感)/ 池新
 【1】日本のある会社が香港で現地の人間を採用しようと求人広告を出したという。
 「日本語のできる人を求む」
 すると(またたく間に、「我こそは日本語が達者である」と胸を張ってたくさんの香港人が押しかけた。【2】会社側はおおいに喜んで、さっそく面接をしてみたが、実際にはほとんどの人が、「コンニーチハ、サヨナーラ」といった挨拶程度しか日本語を話すことができなかったそうである。
 この話を聞いたとき、私は「香港の人はすごい」と感心したものだ。【3】何より語学ができるという認識が、日本人とずいぶんかけ離れているではないか。もし日本人が、「あなたは英語が話せますか」と問われたら、たいがいの人は、「少しだけ」と答えるであろう。【4】この「少しだけ」が「はい、話せます」に変わるまでには長い道のりがあって、よほど流暢に、アメリカ人もびっくりするほどペラリペラリとしゃべれない限り、「話せます」とはとうてい答えられない。【5】恥ずかしいという理由もあるだろうが、もし「話せます」と答えた場合、その責任を自分が取らされたうえ、理解できなかったらどうしようという不安が、一瞬、脳裏をかすめるからである。
 そこで、「まあ、そこそこ話せるな」と内心自負している人も、「少しだけ」と答えておく。【6】そのほうが無難である。これが日本流「謙譲の美徳」 なのである。
 ところが香港のような国際貿易都市で生きていくためには、そんなのんきなことは言っていられない。【7】語学が堪能たんのうでなければ給料のいい仕事にはありつけないし、語学のみならず、自己PRの上手にできない人間は、出世も望めないという社会の仕組みが出来上がっているのだろう。つまり、少々はったりをきかせても、「できる」と先に手を挙げたほうが勝ちなのである。
 【8】もっともこれは、今から十年ほど昔の話だから、やや時代遅れの認識だと言われるかもしれない。今や日本の若者のなかにも、臆病がらずに「はい、話せます」と答える人間が増えている。しかし、私を含めたおおかたの日本人の心のなかには、良かれ悪しかれ「謙譲」を「美徳」とする意識が残っているような気がする。∵
 【9】学生時代、先輩からこんな手紙をもらったことがある。「君はいつも、もうこれ以上は落ちる心配がないというところまで自分を卑下する癖がある。そうしておけば安心なのだろう。人から過大な期待をかけられて失敗するよりも、最初は期待されないで、だんだん評価が上がっていくほうが得策だと思っているのかもしれない。【0】しかし、それは決して正当な自己評価にはつながらない。一見、謙虚に見えるけれど、それでは進歩がないからだ」
 なんでこんなに厳しい批判をされなければならないんだと憤慨しながらも、同時に、自分でも気づいていなかった性格の新しい側面を、みごとに分析され、見せつけられたのには驚いた。(中略)
 日本人は(と、こういう枠組みを作ることがそもそもいけないのだが)、対する人間の出方次第で自分の位置や行動を決めるきらいがある。だからこそ、なるべく早く、目の前にいる人がどういう人間なのかを判断、整理、類別しなければならない。これはもう、持って生まれた性癖のようなものである。「あの人って、誰々に似てると思わない」というのも日本人の得意な台詞である。私個人も気がつくとしょっちゅう言っている。
 かくして人は、自分の立場を確保するために他人を型にはめたがり、その作られた型からはみ出て「打たれる杭」にならないよう、自分自身は「謙譲の美徳」を利用する。
 考えてみると、つくづく日本には、個人の秘めたる才能をできるだけ伸ばさないようにする基盤があることに気がついた。
 では、どうすればいいのでしょう。難しい問題です。何しろ、他人をけなす人は多くても、おだて上手が少ない国だから。
「できる、えらいぞ、ほれ、ガンバ」
 残る手立ては、自分で自分をほめちぎり、なんとか怠けている細胞をたたき起こす以外にない。

(阿川佐和子『おいしいおしゃべり』から)