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課題集 メギ の山

★たしかブレーズ・パスカル(感)/ 池新
【二番目の長文が課題の長文です。】
 【1】顔パスという言葉がある。「おれだ」「よし」という阿吽あうんの呼吸で、本来は規則として処理するところを当人どうしの個人的な関係で処理する方法である。なれ合いというと聞こえは悪いが、人間どうしの信頼関係を基礎にしている点で最も確実な方法とも言える。【2】現代の法律や規則万能の社会では、このような人間の信頼関係に基づいた対応の仕方がもっと見直されてもよいのではないだろうか。
 そのための第一の方法は、相手を信じるだけの心の広さを持つことだ。【3】信頼するということは、相手に自分をゆだねることである。場合によっては、自分が大きな損失を被ることもある。それにもかかわらず、相手にすべてを任せて信頼する。そういう決意があるからこそ、相手も自分を信頼してくれる。【4】ジャン・バルジャンは、自分を信じてくれた老司教を裏切った。しかし、翌朝憲兵に連れられてきたジャンに、司教は、「その銀の食器は私が与えたものだ」と告げる。このように、相手の善なる心に対する絶対の信頼が、人間らしい心をもとにした社会の基礎となる。
 【5】また、第二には、そのような人間どうしの信頼を支えるだけの社会の一体性を作ることだ。日本の社会の治安のよさは、世界の中でも際立っている。タクシーの中へ置き忘れた財布は、ほぼ確実に戻ってくる。【6】日本人にとっては当たり前のように見えるこのようなことが、世界ではきわめて稀なことなのである。そういう社会が築かれたのは、日本が一つの民族、一つの言語、一つの文化を持った社会だったからである。【7】異なる民族や文化と共存することはもちろん大切だが、それは日本の社会の中に異なる民族や文化が異質なまま広がっていいということではない。
 【8】法と正義に基づいて判断するという考えは、確かに人類が長い歴史の中で勝ち取ってきた権利だ。だからこそ、この考えは世界のどこでも通用するグローバルな思想となっている。しかし、そのグローバリズムは、日本のように互いの信頼関係をもとに成り立ってき∵た社会では、人間の心を持たない冷たい機械のような対応に見える。【9】大岡越前守おおおかえちぜんのかみが日本人に人気があるのも、人間の心の温もりを裁き方の中に生かしたからだ。顔パスで交わされるものは、単なる顔ではなく、互いの善意への信頼なのである。【0】

(言葉の森長文作成委員会 Σ)∵
 【1】たしかブレーズ・パスカルだったと思いますが、大体次のようなことを申しました。
 ――病患は、キリスト教徒の自然の状態である、と。
 【2】つまり、いつまでも自分のどこかが具合が悪い、どこかが痛むこと、言いかえれば、中途半端で割り切れない存在である人間が、己の有限性を染々と感じ、「原罪」の意識に悩んで、常に心に痛みを感じているのが、キリスト教徒の自然の姿だと申すわけなのでしょう。【3】まあ、そういうふうに解釈させてもらいます。
 これは何もキリスト教徒に限らず人間として自覚を持った人間、すなわち、人間はとかく「天使になろうとして豚になる」存在であり、しかも、さぼてんでもなく亀の子どもでもない存在であり、【4】更にまた、うっかりしていると、ライオンや蛇や狸や狐に似た行動をする存在であることを自覚した人間の、憤然とした、沈痛な述懐にもなるかもしれません。
 恐らく「狂気」とは、今述べたような自覚を持たない人間、あるいはこの自覚を忘れた人間の精神状態のことかもしれません。【5】あえてロンブローゾを待つまでもなく、ノーマルな人間とアブノーマルな人間との差別はむずかしいものです。気違いと気違いでない人間との境ははっきり判らぬものらしいのです。まず、その間のことを忘れてはならず、心得ていたほうがよいかもしれないのです。【6】我々には、皆、少々気違いめいたところがあり、うっかりしていると本物になるのだと、自分に言い聞かせていないと、えらい「狂気」 にとりつかれます。また、そういうことを知らないでいると、いつのまにか「狂気」の愛人になっているものです。
 【7】天才と狂人との差は紙一重だと、ロンブローゾは申しているわけですが、天才とは、「狂気」が持続しない狂人かもしれませんし、狂人とは「狂気」 が持続している天才かもしれませぬ。
 しかし、人間というものは「狂気」なしには居られぬものでもあるらしいのです。【8】我々の心のなか、体のなかにある様々な傾向のものが、常にうようよ動いていて、我々が何か行動を起す場合には、そのうようよ動いているものが、あたかも磁気にかかった鉄粉∵のように一定の方向を向きます。【9】そして、その方向へ進むのに一番適した傾向を持ったものが、むくむくと頭をもたげて、まとまった大きな力のものになるのです。そのまま進み続けますと、だんだんと人間は興奮してゆき、ついには、精神も肉体もある歪み方を示すようになります。【0】その時「狂気」が現れてくるのです。幸いにも、普通の人間のエネルギーには限度はありますし、様々な制約もありますから、「狂気」もそう永続はしません。興奮から平静に戻り、まとまって、むくむく頭をもたげていたものが力を失い、「狂気」が弱まるにつれて、まとまっていたものは、ばらばらになり、またもとのような、うようよした様々な傾向を持つものの集合体に戻るのです。そして、人間は、このうようよした様々なものが静かにしている状態を、平和とか安静とか正気とか呼んで、一応好ましいものとしていますのに、この好ましいものが少し長く続きますと、これにあきて憂鬱になったり倦怠を催したりします。そして、再び次の「狂気」を求めるようになるものらしいのです。この勝手な営みが、恐らく人間の生活の実態かもしれません。
 酒を飲んで酔った人々の狂態を考えてごらんなさい。エネルギーはその人の極限にまで拡大され、様々な制約はまひ感によって消されます。ですから、あのような「狂気」の饗宴は開かれるのです。酔漢の狂態を鎮めるのには、彼を昏睡させるか、あるいは狂態の結果として生じた無理は簡単には通らぬということを何かの力で示すかするより外にしかたがないことがしばしばあります。しかも、正気に戻った酔漢は、その後少しばかり正気の期間が続きますと、何となく倦怠感を覚え、「狂気」への郷愁に駆られて、またしても酒を求めるようなことをいたします。
 我々が正気だとうぬぼれている生活でも、よく考えてみれば、大小の「狂気」の起伏の連続であり、「狂気」なくしては、生活は展開しないこともあるということは、奇妙なことです。
 要は、我々は「天使になろうとして豚になりかねない」存在であ∵ることを悟り、「狂気」なくしては生活できぬ存在であることを悟るべきかもしれません。このことは、天使にあこがれる必要はないとか、「狂気」を唯一の倫理にせよとかいう結論に達すべきものでは決してありますまい。むしろ逆で、豚になるかもしれないから、豚にならぬように気をつけて、なれないことは判っていても天使にあこがれ、誰しもが持っている「狂気」を常に監視して生きねばならぬという結論は出てきてもよいと思います。「狂気」なしでは偉大な事業はなしとげられない、と申す人々もおられます。私は、そうは思いません。「狂気」によってなされた事業は、必ず荒廃と犠牲を伴います。真に偉大な事業は、「狂気」に捕えられやすい人間であることを人一倍自覚した人間的な人間によって、誠実に執拗に地道になされるものです。やかましく言われるヒューマニズム(ユマニスム)というものの心核には、こうした自覚があるはずだと申したいのであります。容易に陥りやすい「狂気」を避けねばなりませんし、他人を「狂気」に導くようなことも避けねばなりませぬ。平和は苦しく戦乱は楽であることを心得て、苦しい平和を選ぶべきでしょう。冷静と反省とが行動の準則とならねばならぬわけです。そして、冷静と反省とは、非行動と同一ではありませぬ。最も人間的な行動の動因となるべきものです。ただし、錯誤せぬとは限りません。しかし、常に病患を己の自然の姿と考えて、進むべきでしょう。

(渡辺一夫『狂気について』より抜粋)