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課題集 メギ の山

★新聞というものをまるで読まない(感)/ 池新
 【1】新聞というものをまるで読まないと言い切っている人がいる。そうかと思うと、朝手洗いで新刊書の広告を読むのが最大の楽しみだという人もいる。私はどちらの方に近いのだろうかと考えてみた。たしかに、私は、新聞が一生懸命に論じようとしている主張の、あまり良い読み手ではないような気がする。【2】たいていの場合、新聞が無名性の名において大衆を善導しようとして声高に説いている論述と、一人一人の新聞人が生きている現実のズレを、そのまま出してくれるような紙面にあまりお目にかからないからであろうか。
 【3】どちらかといえば、私は、行間と余白の読み手であるのかも知れない。そういう意味で私は、新聞を、月一度とか二度でなく毎日立つ縁日のようなものであると見ているふしがある。論説記事は神社の神主かんぬしさんの祝詞のりとのようなものであり、【4】謹聴しなければならないときは黙っておとなしく聴くが、終わったらホッとする類のものであり、経済記事はおみくじのようなもの、政治・社会面に至っては、小屋掛け芝居のようなもので、読み手たる私はぶらぶら散歩して夜店をひやかす客のような存在である。
 【5】ということになると一番楽しく、ぴったりしているのはやはり広告欄という名の夜店通りかも知れない。【6】広告も小さい下の書籍欄のように仲よく並んでいるのは、チャーミングな店舗であるが、全面広告のようなものはどちらかと言えば、香具師やしの口上じみているから、レイアウトを楽しむけれど、「眉つばもの」と聞きながす傾向がある。
 【7】それでは、あなたが時々執筆する文化欄・学芸欄のたぐいは何であるかと問われると、言うまでもなくそれは縁日に立つ見世物、そのある程度集約されたものとしてのサーカスのようなものであると答えることができるだろう。【8】時には侍くずれの居合抜きのような突っぱった言説あり、時にはガマの膏売りの口上よろしく本当か嘘かわからない言説の押し売りがあり、舶来の、人目をおどかせる新奇術よろしくうたい上げられる新思想ショーがある。【9】そうかと思えば、アクロバット仕立ての音楽会評が載る。これらはすべ∵て、巧みに演じられる時は、内容の当否は別として目を楽しませてもらえるが、下手な芸、または興行師の下手な意図が、前面に出たりすると目もあてられなくなる。
 【0】縁日であるから、やはりそこには、日常生活の時間の流れと異なった、さまざまな偶然の介入があった方がよい。思いがけない人に会うとか、国鉄(JR)払い下げの傘を百円か二百円で買うとか、思ってみなかった種類の商品に出会う面白さはできるだけあった方がよい。
 その点、安物だが、新しさだけは強調してある夜店の売り場は子供にとって魅惑の空間そのものである。さし当たって、新聞の中にそうした偶然が潜んでいる空間を探すとすれば、それはやはり、あちこちに散らばっている情報である。情報もできるだけ、個人がひそかに培養している「私」文化といった、あまり人と分かち持ちたくないものに直接プラスになるものの方が、意外性の面ではより高いように思われる。
 演劇、音楽、催し、人についてなど、こうした、自分が知っているから隠れた意味が明らかになるといった事実は、なるべく宝さがしのように、それらしくないところに置いてあった方がよい。多くの人が、新聞の読書欄というものをたいしてありがたがらず、本の広告の方にひそかな楽しみを託そうとするのは、そのような情報の極秘化の欲求の表れかも知れない。