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課題集 メギ の山

★産業革命以来、機械は(感)/ 池新
 【1】産業革命以来、機械は人びとの生活を豊かにする打出の小槌の役目を果たすものだと思われて来た。そしてその進歩はイコール人類の幸福につながるとも信じられていたのである。過去百年の間、わたしたちはなんの疑いもなくそれを信じて来た。【2】その信仰がまちがいでなかったことは、人類がついに月に到達することによって証明されたかのように見えた。まさに科学の勝利を確認する成果だったわけである。そうした背景に立ったとき、なによりも頼りになる確かなよりどころは、工学的なものの考え方であったし、またそう信ずるのが当然のなりゆきでもあった。【3】そして数量的に証明できるものにこそ真理があり、それのみが正しいとする考え方が、広く行きわたっていったのである。
 だが最近になって、それだけがすべてではないということが、反省されるようになった。【4】経済の高度成長下にあっては、その目的を達成する一番有力な武器は、工学的な発想と工学技術であった。だがいまやその行きすぎがいろいろな面で見直されようとしている。それを補うための最も有効な方法の一つとしてあげられるのは、生物学的な発想であろう。【5】「二〇世紀は機械文明の時代であったが、二一世紀は生物文明の時代になる」というような言葉が使われている。これもまたそのことを示唆するとみてよいであろう。
 いまここで述べてきたことは、デザインの分野についてもあてはまることである。【6】以下にとりあげるのは、やや片寄った対象ではあるが、わたしの関係するインテリアの分野を例にしてこの問題を考えてみたい。
 生物学と建築というと、いまのところいかにも縁遠い存在のように思われる。だが果たしてそうであろうか。
 【7】動物学は、かつてはおもに医学の補助手段として発達した面があった。一八世紀以来の比較解剖学や、一九世紀になって発展した比較生理学は、そうしたところから出発した学問であった。【8】だがそれらの科学は、現在ではもっと広く人間そのものの生き方や、人間観の構成という分野にさえも、寄与するようになって来ている。おなじ事情は植物学についてもいえることである。
 【9】それにもかかわらず、一般には生物学が建築とかかわり合う範囲は、動物学なら建築害虫、植物学なら造園の分野くらいでしかないという単純な受け取り方がある。これはいささか近視眼的にすぎるのではないだろうか、とわたしは思う。∵
 【0】これまでの建築は芸術性と工学的な技術に重点がおかれていた。建築学が一つ一つの独立した建物をつくる技術であった段階まではそれでよかったであろうが、それが一方では都市という空間にまで拡大し、他方ではまた、インテリアというミクロの空間にまで細分化されて来た現在では、その底流に生物学的なものの見方、考え方がしっかり根を下していないと、建築もインテリアも本当に人間のためのものになりえないということが、いま反省され始めようとしている。
 考えてみるとわれわれの生活の大部分は、生物的嗜好でよいわるいを判断していることのほうが多い。だが従来の工学的立場では、そういうあいまいさは技術とは認められなかった。そこでなんとか数量的にあらわそうとするが、現在の技術の段階ではどうしても割り切れない部分が残ってしまう。その断層を埋める手段が、しばしば芸術の名のもとに、単なるカッコよさとすり換えられるおそれもあったのである。だが新しい生物学は、そうしたあいまいさに対して、一つのよりどころを示す可能性を持つようになった。そして同時に、数量的に割り切れるものだけが科学のすべてではない、ということも教えてくれるようになって来たのである。
 いま都市空間の例をあげよう。ブラジリアはあらゆる技術を駆使して二一世紀の夢の都市としてつくられたはずであった。だが実際にできあがってみると、かんじんの人間がなかなか住みつかない。その理由を調べてみるといわゆる街角がなかったためだという。気楽に人と人とが接し合う泥臭い片隅がなくて、街のたたずまいも、周辺の人造湖も、よそゆきの冷たい美しさで整いすぎていた。あるがままの人間臭さのよどみ、といったものが欠けていたのが原因だったというのである。
 そうした話題はわれわれの身辺にも少なくないようである。新宿副都心ができてから一年後の反省は、予想していたほどの人が寄りつかないことだったという。その原因は、人を引きつけるなにかがまだ足りない。庶民的な泥臭さ、たとえば赤ちょうちんや縄のれんというようなものが欠けていたことに気がついたというのである。住まいの環境が美しくあることは、たしかに望ましいことにちがいないが、芸術第一主義では庶民にはとても住めない。庶民は人間であるよりもさきに、まず生物で、生物は本来もっと泥臭いものだということが、いつの間にか忘れられていた。それに気がついたわけである。

(小原二郎の文章による)