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課題集 マキ3 の山

○自由な題名 / 池新
○音楽 / 池新
★清書(せいしょ) / 池新

○働きはじめた記念に / 池新
 働きはじめた記念に、腕時計を買ってくれたのは、兄であった。それに寿命がきて、自分のふところから次の時計を購った。そのころ流行らなかったアラビア数字の文字盤のを選んだのは、父の古い懐中時計に対するあこがれが、心の底に残っていたからだろうと思う。安価なものだったが、寿命は長かった。いまのは四代目になるが、例の液晶時計である。毎日ネジを巻いてもやらないのに、健気にも正確に動いている。何だか、自分自身、そして、この世に在る働き好きの男や女に似ているようで、つらくなる。
 働いて働いて、その行くさきが、働く同士のしあわせならいうことはないが、その逆になるのだったら、これは困る。
 そんな、時計の針を逆まわりさせるようなことに、私の時間を使いたくないし、使われたくない。
 村の駅にあったあの振子時計は、戦場に送られるたくさんの若者と、白木の箱になって帰ってきたたくさんの若者をしっかりと見ていた。その時計は、いまははずされて、電気時計にかわっている。けれども、そのあたらしい元気ものの駅の時計に、古い振子時計が見たものと同じものを見せたくない。
 私たちの時計、目に触れるあらゆるまちの時計に、かつて犯した人間にそむく歴史の時間をふたたびきざませていいものか。
 時計は何故(なにゆえ、時をきざむか。
 私たちは、何故に時間を恵まれるのか。つまり私たちは、何故こうして生きて、暮らしているのだろうか。よくはわからないけれどもただひとつ言えることは、人の命を奪ったり奪われたりする戦争なんかのためではない、ということである。私たちが、これからどう生きるか、それを時は見守っている、と思う。私たちのあらゆる時計に、あやまった歴史をきざませてはなるまい。

(増田れい子『インク壺』)