課題集 マキ3 の山
苗
絵
林
丘
★台所から出てきた母が/池
池新
台所から出てきた母が、「なにをぼんやりしとるのけ。」ときいた。
私が「雀」とこたえると、私に近づいてきて、箱の中をのぞいた。
「おとっつぁんがいま怒っとったのは、この雀のことかや。」
「うん。」
「どれ、かわいい子だね、どこにおったや。」
そして母は、白い手で、もはや眠っているらしい子雀をにぎった。
いつも、父といっしょになって「殺生」を許さない母が、いつになくやさしく、この子雀に愛情を示してくれたので、私は、自分のことのように嬉しく感じるとともに、多少奇異な気持ちにとらわれて、母の顔をまじまじと見あげねばおれなかった。
母はまだ若く美しかった。しかし、三月ほど前、母のたったひとりの子ども、そして私には異母弟にあたる宇吉が、むしを起こしてぽっくり死んでしまってから、愛の中心を失って、生気のないその日その日をおくっていた。顔なども、青白くやつれていた。
「柱時計のうしろに、ぎす籠があったな。」と言いながら、母は家の中にはいった。私は、しめた、と思って母を追い越し、すぐ柱時計のうしろから、ほこりにまみれたバッタの籠をとり出してきた。母は、その中に綿を敷いて、その上に子雀をおいた。子雀はやわらかいまっ白な綿にくるまって、いまは暖かそうに眼を閉じた。母と私は、頬がすりあうほど顔を近づけあって、のぞいていた。愛されることの少なく、そして愛されることをひと一倍欲していた私は、子雀が母に愛されるのを、自分が愛されるのと同様に感じて、心はかぎりなくおびただしいよろこびに酔いしれていた。
まもなく、「殺生」を犯している母と私を発見した父は、母とひともんちゃく起こさねばおかなかった。
「そんなものは、子どものおもちゃじゃないか。」と父はにがにがしげに言った。
「子どものおもちゃでもええ。」と母はだだをこねるように言った。∵
そしていつまでも、籠の中を澄んだひとみでのぞいていた。私の眼には母が少女のように見え、父が鬼のように映った。父と母のせりあいの結果が、かわいい子雀の運命、ひいては私の生活の希望を左右するのであったから、私は小さい心の中に、ひそかに両手を合わせて、母の言い分が通るように、父の我が折れるように、といのっていた。私の願いはききとどけられたのか、母の我が通って、やがて、「そんなものはあ、今夜のうちに死んでしまわあ。」と父は負け惜しみを言いながら、その場を去っていった。私たちは、安堵した。
父が去ってしまうと、父の負け惜しみに言いすてていった言葉が、いまは一羽の小さな生物によって結び合った私と母の心に、なにか暗い不安の影を投じた。子雀は、少なくとも午後中、一滴の水もひとつぶの米も、口にしていなかったのである。ほんとうに父の言葉のとおり、今夜のうちに冷たくならないとは、だれが保証できよう。そこで母は、遅い夕飯がすんだ後、おひつの底に残った米つぶを杯に入れて籠の中にさし入れてやったり、私は雀にはみみずがよいようだから、藪でみみずを捕ろうといって、自らちょうちんを持ち、私がおぼつかない手もとに、満身の力をこめて打ちこむ鍬の先を、照らしたりした。そんな母がけんめいになり、私もまた、かつてしらない希望と幸福に夢中になって、われを忘れて奔走したのに、やわらかい米つぶをさしつけても、うまそうなみみずを鼻の先に持っていっても、子雀はそれをたべようとはせず、籠をゆすられるたびに、うすい透明なまぶたをぱっとあけたが、すこし羽をごそごそさせると、再び居心地よさそうにまぶたを閉じ、重い眠りにおちてしまうのであった。私の眼ももう眠い時間であった。私は床にはいって眼を閉じる前に、もう一度、父と母がつぎの間で、子雀について言い争っているのを耳にした。
(新美南吉『すずめ』)