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課題集 マキ3 の山

○自由な題名 / 池新
○贅沢(ぜいたく)はよいか悪いか / 池新

★バスは混んでいた / 池新
 バスはんでいた。
 二十年も前の話だから、乗り物の数も少なく、おまけに乗る人間も冬は厚着であった。家の中も街も今よりずっと寒く、人は暗い色の冬支度に着ぶくれて、殺気立って朝晩のラッシュに揺られていた。
 その朝も、私は吊革つりかわにもブラ下がれず、車の真ん中で左右から人に押されながら、週刊誌を読んでいた。
 押しあいへしあいの中で、二つ折りにした週刊誌のページをめくろうとすると、
「あ」
 という声がする。
 声の主は、黒い学童服を着た小学校低学年らしい男の子で、私の胸のところに押しつけられている。その子は、ちょっと口をあき、訴えるような目で私を見た。週刊誌の向こう側には、漫画が載っていた。彼は、漫画を読み終わらないうちにページをめくられたのだった。
 私は漫画を少年に見せるようにしてまたしばらく揺られていた。少年の目が漫画の吹き出しのセリフの部分をゆっくりと追い、声を出して読んでいる。おしまいまで読み終えたところで、少年は目をあげてまた私を見た。
 バスが少しいてきて、少年は次の停留所で降りる気配があった。ところが定期券を忘れたらしい。ポケットを探って困っている。
 私が、
「忘れたの? 」
 とたずねると、怒ったような顔をしてうなずいた。私は小銭入れからバス代を出し(十円か十五円であったかおぼえていない)少年の手に握らせた。少年は、小銭を握ったまましばらく外を向いて揺られていたが、降りぎわに胸のポケットから赤鉛筆を抜いて黙って私に突き出した。ボール紙をむくとしんの出てくる、当時としては珍しいもので、父親か(だれかに(もらったのであろう、十センチほどの使いかけであった。∵

向田邦子(むこうだくにこ『あ』)

○■ / 池新