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課題集 マキ3 の山

○自由な題名 / 池新
○失敗する前に教えるのはよいか悪いか / 池新
★あだなはよいか、私の目標 / 池新

○玄関のドアが / 池新
 玄関のドアが内側と外側とどっちに向いて開くか、そういうことを多くの日本人は意識しない。
 しかし、事実は、この向きが日本とイギリスとでは反対になっているのである。日本の玄関ドアは外に向かって開く。これはほとんどどの家でも例外がない。しかるに、イギリスの家屋では玄関のドアは決まって内側に向かって開くのである。
 これがどっち向きに開くかということは、じっさい客人を迎え入れる上では極めて重要な意味を持っている。というのは、こういうことである。
 まず日本式に外に向かって戸が開く場合、客が戸のまん前に立っていたら、ドアにぶつかってしまって、まともに開くことができないだろう。だから、客は、一歩退いて戸の開くのを待つか、または少し横に避けて待機しなければならない。しかも、主人の側ではドアを向こう側に押しやるわけだから、それは心理的な方向としては「向こうへ放つ」という傾向があって、「迎え入れる」という形にはなりにくい。そしてもし、主人がドアのノブを丁寧に握ったまま向こう側に向けて戸を開くとすれば、客が入ってこようとするその動線上に、彼の進入を妨げるようなあんばいに立ちはだかることになるわけである。これは言ってみれば、主人、客人ともに、ドアの「内側」でぶつかってしまうかっこうになる。こうして、日本の家は、その玄関ドアの脇で客を迎えるのにはまことに都合の悪いシステムにできている。(中略)
 さて、こういう事実の裏には、むろん、そうでなければならない文化的背景または歴史的理由があるにちがいない。ただ漫然とそう決まったわけではあるまい。
 まず第一に、日本では家の内外は「露地」と「床の上」という区別があった。だれでも靴や下駄を脱いで家に「上がる」のである。その接点が「玄関」なのである。そこは内外の交錯するところ、すなわち空間的には屋根の中(=内)であって、しかも、機能的には土間(=外)なのだ。客は、玄関まで入っただけではいまだその家に「上がった」ことにはならない。むしろ心理的には玄関先で「追い返した」ことになるであろう。靴を脱いで、かまちから床上に上がったとき、初めて客人として迎え入れられたことになる。∵
 したがって、客を迎えるときにもっとも正式のスタイルでは、主人は床の上に正座して、いわゆる三つ指ついて頭を下げるという形になる。ドアを開けて人をその内側に入れるだけでは、それは客を迎え入れる儀礼としていまだ経過点に過ぎず、正式に迎え入れる儀式が完了したとはみなされない。
 しかし、イギリスで客を迎えるというのは、まさにこの「ドアを通過した時」をもって完了したとみなされるのであって、そこには「床の上下」というような垂直方向の高低差は存在せず、もっぱら、ドアの「うちそと」という水平方向の境界があるに過ぎない。(中略)
 基本的には、玄関のドアの開く方向のちがいには、こういう文化的な意識の相違が内在していると私は考える。(中略)
 もう一つの大きな理由は、「雨じまい」にある。日本はイギリスとちがって、きわめて「水っぽい」国である。雨の降り方はむしろ熱帯的で、パラパラとしか雨が落ちてこないイギリスなどとは大きなちがいである。しかも、春は菜種梅雨、夏に梅雨、夕立、秋には台風、冬に時雨、……と一年中雨が家々をせめたてる。どうやって家に雨が入らぬようにするか、ということは日本の家屋にとって重大な問題にほかならなかった。(中略)
 ところが、イギリスの家屋では雨じまいなどはあまり重要には考えられていない。せんだってもふた月ほど住んでいたロンドンの住宅では、ちょっと強く雨が降ると、ほとんどジャブジャブという感じで窓から雨が流れ込んできて、まことに閉口したものだった。
 この感覚からすると、ドアが内側に向かって開くことなども全然問題にならない。しかし、日本人のように家に雨を入れないという見地からみれば、ドアが内側に開くのはこれまた充分に不都合なのであったろう。なぜといって、ドアの外枠と戸の関係上、ドアに降りかかった雨滴がどこへ落ちていくか、ということを考えてみればよい。内開きの場合、それはどうしても、内側すなわち玄関の中が水浸しになることを意味するからである。

(林望「リンボウ先生イギリスへ帰る」)