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課題集 マキ の山

★数年前、森林関係の研究所に(感)/ 池新
【一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。】
 【1】体育の先生のどなり声が飛んだ。集合するときの集まり方がだらしなかったということで、私たちは全員正座をして先生の説教を聞くことになった。【2】目をつぶって聞くようにと言われたが、私は途中からそっと薄目をあけてみんなの様子をうかがった。すると、話をしている先生の顔が見えた。先生は、意外と穏やかな顔で、声の調子だけは厳しいまま話を続けていた。
 【3】私がこの怖い先生の気持ちがわかったのは、自分が先輩という立場になり、後輩を叱る場面を経験するようになってからだ。叱るということは、叱る側に気迫がないとできない。【4】その気迫は、相手に対する思いやりから来ている。よく子供を叱れるのは親だけだというが、それは親が心から子供のことを考えているからだろう。【5】その点で、他人の子供を自分のことのように叱れる怖い先生は、貴重な存在だということができるだろう。
 吉田松陰しょういんは、獄中から門下生に激を飛ばす激しい一面があるとともに、どのような人にも優しい態度を貫いた教育者だった。【6】松陰しょういんの捕らえられた獄舎には、世間から見捨てられた犯罪人ばかりがいたが、それらの人々がやがてみんなで松陰しょういんの講義を聴くようになった。
 【7】優しい先生ということでは、ヘレン・ケラーを教えたサリバン先生も挙げられる。障害を持って生まれたために甘やかされ、わがままに成長したヘレン・ケラーを、サリバンは心を込めて導いた。
 【8】このように考えると、怖い先生、優しい先生といっても、それが何のための怖さであり、何のための優しさであるかと考えることが重要だ。怖さと優しさは表面的には正反対のように見えるが、その底にあるのは相手に対する思いやりだ。【9】その思いやりの根本には、その人の確かな人生観がある。問われるのは、相手が怖いか優しいかということではなく、それを受け止める自分自身の生き方である。どなり声の向こうにある本当の心を見ていくことが大切なのだ。【0】

(言葉の森長文作成委員会 Σ)∵
 【1】数年前、森林関係の研究所に勤務している研究員のところに、ある村の村長が訪ねてきた。その村の森には、それほど多くはないけれど、いまでは希少価値になった天然のヒノキが大きく育っているのだという。【2】そのヒノキをいちばん高く売るにはどうするのがよいのかが村長の問いだった。研究員はいろいろしらべたうえで、後日その方法を教えた。それは玄関の表札にして売るのが有利だというものだった。
 ところがそう話したら、村長はきわめて不愉快そうな顔をした。【3】樹齢二百年を超えた大木が、柱になった後も堂々と建物を支えつづけ、生きつづける姿を思い描いていた村長には、それが細切れにされることなど、容認できることではなかったのである。商品価値を高めることが、木を侮辱することであってはならないと思った。
 【4】「それがあの頃いちばん高く売る方法だったのに」
 研究員は私にその話をしてから、「しかし、村長の気持ちもわかるし」と言って楽しそうにわらった。自分の提案が拒否されたことは、彼にとっても愉快な出来事だったのである。
 【5】木が本来もっている価値を生かすことと、商品として木を高く売ることは、必ずしも一致しない。いまでは天然のスギの銘木は、紙のような薄い板にされ合板に張りつけられて、天井板などになることが多い。【6】それが天然スギをいちばん高く売る方法でもあるし、そのことによって天然スギのもっている木目を比較的安い価格で、だれもが楽しめるようになったと評価する意見もある。しかし、それでもなお私は、山奥の路上で合板にされるために乾かされている天然スギをみかけると、私は村長と同じような気持ちをいだくのである。
 【7】今日では山の木が建築物に変わるまでの間には、次元の異なる二つの過程が重なりあっているのであろう。それは使用価値と商品価値の違いによって生ずるズレ、といってもよいのだけれど、木自体がもっている価値を生かすか、商品としての木の価値を優先するかをめぐって、木にたずさわる者たちもまた動揺してきた。【8】そしてそのことは、ときに力強く木の育った美しい森と経営効率を優先させた森の違いとなってあらわれ、製材や建築の過程では、職人的な仕事と商品をつくるだけの労働の違いとなってくる。∵【9】たとえば、製材工場を訪ねても、スギやヒノキなどの国産材をひく工場と、輸入材をひく工場とでは、雰囲気がずいぶん違う。国産材は、どこにノコギリの刃をあてるかで木目の出方も変わり、木の価値も商品価値も変わってくるから、木目の出具合を読む職人の経験やカン、コツが工場を支えている。【0】ところが、輸入材は木目も一定のものが多く、しかも大壁工法などの柱のない家の部材になることが多いから、部品をつくる自動化工場のようである。最近では労働力不足に対応して、コンピュータ製材が関心を高めているけれど、それも職人の腕を必要としなくなった輸入材専門工場での話にすぎない。国産材の工場はいまも職人の世界である。
 山の木を単なる商品にしてしまわないためには、職人的な腕が生きていなければいけない。確かに、山の木は、林業家から製材業者へ、工務店から消費者へと、商品として流れていく。ところが、この流れのなかに、美しく、大きく森を育てていこうとする村人の腕や、製材職人の腕、木の特性を生かしていこうとする大工の腕などが健在である間は、木と人間は一体化して、木の文化をもつくりつづけることができる。
 木の文化は、天然のヒノキが細切れの板にされるのをかわいそうだと感じる、あの村長の気持ちに支えられてきた。そして、その気持ちを仕事のなかで実現させる職人たちの腕とともにあったのである。

(内山たかし「森にかよう道」より。一部省略等がある。)
(注)大壁工法=断熱材等でできている壁板を、柱をおおうように張っていく建築法。