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課題集 フジ3 の山

○自由な題名 / 池新
○もうすぐクリスマス(お正月) / 池新


★君は、何でも食べるように / 池新
「君は、何でも食べるようになったな」
 デザートのシャーベットを食べながら、ふと思い出したように、Jが言った。彼は、自分の前にあった皿だけでなく、息子たちの食べ残しの分まで、ことごとくたいらげていた。
「あら、昔は、好き嫌いがあったの?」
 驚いたように、妻が言う。Jは、いたずらっぽい目で彼の方を盗み見たあと、笑いをかみころすようにして説明する。
「好き嫌いというよりも、こいつはまったく何も食べなかったんだ。高校時代、昼メシを絶対食べなかった」
「朝もだ」
と彼が補足した。
「あら、どうしてなの?」
「食欲というものを、軽蔑していたんだ。僕は自分を、何かしら特別の存在だと思っていた。その特別の存在が、ふつうの人間とおんなじようにメシをくうなんて、とても耐えられなかった」
「でも、晩ごはんは食べてたんでしょ」
「一日じゅう、何も食べないでいるってわけにもいかないからね。悲しいことだけれど、僕もやっぱり、一個の生きものだから……」
 横あいから、Jが口をはさんだ。
「その一日一回きりの食事ってのが、すごいんだよ。彼の家で、一度夕食をごちそうになったことがあってね。とにかく、こいつがメシをくってるのを見るのは、あれが初めてだった」
「まあ、どんなふうだったの?」
「おかしいんだよね。テーブルの上に、トマトケチャップの大ビンを置いてね、何でもかでも、ベトベトの真ッッカにして食べるんだ」
「何でもかでもって――」
「つまり、あらゆるものだよ。肉でも、魚でも、野菜でも、メシでも。これは現場を見たわけじゃないけど、お母さんの話では、カレーライスを食べる時でも、皿が真ッ赤になるまでケチャップを――」
「うわッ、気持ちわるい」
 彼の妻は、つわりになったように、口を手でおさえて、むせかえ∵った。それから、息もたえだえ、といった様子で、尋ねた。
「あなたって、そんなふうだったの。でも、あたしと一緒になった時は、ふつうに何でも食べたじゃないの」
「そうだよ――」
 だしぬけに彼は、奇妙に冷ややかな眼射まなざしで、妻の顔を見すえた。
「お前と一緒になった時、僕は、トマトケチャップの大ビンと、訣別したんだ。そして、同時に僕は、トマトケチャップの大ビンに象徴される何ものかに対して、別れを告げたんだ」
「なーによ、何よ」
 と妻は、からむような口調で、大声をはりあげた。
「何のことだか、わけがわからないわ。大げさなこと、言わないでよ。いったいトマトケチャップに、どんな意味があるっていうの」
<中 略>
「それは、こういうことなんだ」
 妻にではなく、まるで自分自身に話しかけるような調子で、彼はゆっくりと語りはじめた。
「子供の頃、僕は現実というものを嫌悪していた。現実は、僕をうけいれてはくれないし、だから、僕の方も、現実にまつわる一切のものを拒絶してやろうと、身構えていた。食べるものにしてもそうなんだよ。いろんな材料がありいろんな料理があり、いろんな味つけがある。それは大人たちの約束事じゃないか、と僕は覆った。そんなものは、無視すればいい。そこで僕は、材料の風味や、味つけが吹きとんでしまうように、あらゆるものにトマトケチャップをかけて、口の中に流しこんだ。ほんとうは、僕は宇宙飛行士が口にするような、チューブに入った食べもので生きていたかった。料理だとか、調味だとか、そんなくだらないものに自分の感覚をひきまわされたくなかった。つまり僕は、数字や記号で置きかえることができるような、抽象的な存在でありたいと願っていた。それが僕の夢だったし、その夢が破れた時、僕の青春は、終わったんだ。むろんこれは、一つの思いこみが消えて、新たな思いこみが始まっただ∵けなのかもしれない。でも、それでもいい。とにかく僕はいま、こうして、みんなとテーブルを囲み、いろんな食べ物を味わった。そうだ、人と人とが、心の底からお互いを理解し、永遠に愛しあうなんてことは、現実にはありえないかもしれない。けれども、同じ料理を口にして、その味や風味や舌ざわりを、ともにかみしめることはできる。それは愛などといったイメージからはかけはなれたものかもしれないけど、でも、これはこれで、とても大切なことだと僕は思う。自分以外の他人たちと、何かを一緒に食べるなんて、以前の僕なら、それ自体が不快のタネだったんだが……。つまり、そういうことなんだ。いま僕は、トマトケチャップなしで、さまざまな料理を、みんなとともに味わうことができる。かつては嫌悪し、拒んでいた現実をおだやかにうけいれることができるんだ」
「おだやかに――?」
 不意に、異議をはさむように、Jが遮った。しかし彼は、いちだんと強い口調で、同じ言葉をくりかえした。
「そう、おだやかにね」
 そう言って彼は、テーブルを囲んでいる、妻と、二人の息子と、Jの一家三人を、撫でるようなすばやさで、ぐるりと見回した。

(三田誠広まさひろ『トマトケチャップの青春』)