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課題集 フジ3 の山

★元気に孫の運動会を/ 池新
 元気に孫の運動会を見にきて、その足で自分の妹や弟夫婦と二泊三日の旅に出て、そのまま帰ってこなかった。
 父親とは九歳の時に早々死に別れたが、うかつなことに旅先の病院に駆けつけるまで母と別れるなんてことは考えてもいなかった。考える余裕がないほど母とは密着していた。
 実は生まれて四十二年、母親と離れて住んだことがなかった。父が私という肩代わりを残してさっさと消えてしまったから、母ひとり子ひとり、りえとりえママの倍にあたる月日を常に一緒に生きてきた。
 りえママのようなたくましさがなかった母は、夫を失った不安と心細さを娘である私にグチることで、そこから立ち直ろうとした。
「まったく神も仏もないね。ウチみたいに困っている家のかわらを台風に吹き飛ばさせるなんて。お前どうしたらいいと思う?」
 最後は私に決断を求める。小学生の私は、あわてて飛んだかわらを拾いに走り、それが使えないとわかると剥げた屋根にビニールを貼る方法を真剣に考えたものだ。
   (中 略)
 母のような大人になりたくないと思い始めたのは、まだ中学生の頃だったと思う。
 私が自分のしたいことをすると世間体が悪いと怒るのに、私がアルバイトをするとすまないねと小さくなる母が何だか悲しくていやで、私が一番不機嫌になるのは「お母さんに似ているね」といわれた時だった。
 母と違う生き方をしたくて、ずっと母と闘ってきたような気がする。それでいて、離れる勇気も放す勇気もお互いになかった。
 母に似てると誰にも言われなくなったら、母に似ていると思える部分が自分の中にたくさんあることに気がついた。私がずっと苦戦していたのは、母の影ではなく実は自分自身の影だったのかもしれないなあと思う。∵
 私の中の認めたくない部分を、母に映してそこを嫌悪し、勝手に屈折していたのかもしれないとも思う。母がいなくなって、いろいろなものが全部自分の中に映し出され、母への感情がシンプルな娘のものになった。
 ずいぶん前に、子供は親の影と戦いながら親と逆の生き方をするか、抵抗しつつ同じ生き方をするかどちらかだというような説を読んだ覚えがある。親のいいところだけ取るという都合のいい道はないらしい。
 自分に対してはいよいよ気が重いが、写真の母には素直になった。
 写真は笑っている。旅先から家に連れて帰り、必死で笑っている写真を捜したのだ。これからも親の影を背負って生きていかなければならないだろう私を、せめて笑ってみていてほしかったからである。

(吉永みち子「母の写真」)