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課題集 フジ3 の山

○自由な題名 / 池新
◎木登(きのぼ)りをしたこと / 池新
○私の趣味、将来なりたいもの / 池新

★人間は嗅覚に関しては / 池新
 人間は嗅覚に関しては食肉類にかなわないけれど、味覚に関しては、はるかに発達している。味を楽しむということは、高等な霊長類にすでに見られる性質である。宮崎県の幸島こうじまのサルがイモ洗いをする話は、あまりにも有名だが、彼らはイモを洗ってよごれを落としているだけではない。今から三十年余り前に、ある天才的なメスの子ザルが最初に考案したのは、川でイモを洗うという方法だった。おかげで彼女は、研究者に「イモ」という名をもらうはめになったが、それはさらに、海で洗うという方法に発展していった。よごれを落とすだけなら一度洗えばいいはずなのに、食べてはまた海水をつけるということを繰り返す。塩味を楽しみながら食べているのだ。(中略)
 霊長類の進化の過程で、一方では嗅覚の退化が起こり、他方では味覚の進化が起こった。そして、味覚と相まって進化したのが色覚である。食肉類はほとんど色覚をもたないから、色とりどりの花が咲き乱れ、チョウが舞う草原にすんでいても、その美しさとは無縁だろう。そういう意味では、たとえ花も木もない殺風景な場所であっても、さっき通ったイタチの臭跡しゅうせきやノウサギのふんの匂い、あるいは傷ついて仲間からはぐれた草食獣の血の匂いといった、彼らを緊張させ、心をときめかせるものに満ちあふれていれば、それこそがわれわれの感じる美しい風景に相当するものなのだろう。
 では、そもそも、霊長類において味覚と色覚が進化したのはなぜなのだろうか。霊長類は果実を好んで食べる。その果実というのは、熟していないときには葉と同じ緑色をしていて、いわば葉の中に身を隠している。しかし熟すにつれ、私を食べて下さいと言わんばかりに、赤、黄、紫など葉に対してめだつ色になってくる。その上当然のことながら、甘味かんみも増す。つまり、霊長類の色覚は熟した果実を見つけやすいように、味覚は味を楽しむことができるように進化したのだ。∵
 さて、固いセルロースの層におおわれた、果実の種子は、そのままのみこまれると消化されずにふんとともに排出される。人間は決まったトイレをもつけれども、遊動生活をしている多くの霊長類は、行く先々でふんをしている。その結果、種子はあちらこちらに種まきされているのと同じことになる。しかもふんという肥料つきで。実のなる植物は、ミツバチなどに受粉の大役を任せる一方で、霊長類や鳥には種まきをさせているわけである。
 それに対し食肉類は、一定の巣をもっているし、たいていはふんをする場所を決めている。うまくしたもので、果実は彼らに食われることがない。
 さて、果実を食べながらもふんをまき散らしてくれない霊長類である人間は、一定の住居を持ち、狩りをし、肉食をする。しかし同時に、味覚と色覚が発達していて、果実を好むという霊長類らしさはもち続けている。われわれが食肉類をまねた霊長類だということは、肉や魚に味付けをして食べたり、料理の配色に気を使ったりすることによく反映されている。
 異常に甘い物好きなホモ・サピエンスであるところの私は、デパートやスーパーのお菓子かし売り場に行くと、まるでお花畑にでもいるような気分になれる。それに、おめあてのお菓子かしを買うと、もうそれだけで幸福感でいっぱいになってしまう。こういう感情は、いったいどういうところから生まれてくるものなのか常々不思議に思っていたのだが、あるとき次のようなことに気がついた。お菓子かしのパッケージの色は、圧倒的に赤や黄系統が多い。青や緑のパッケージなんて、ほとんどと言っていいほどない。この赤や黄色というのは、熟した果実の色と一致するではないか! 果実の皮をむく代わりに包装紙をめくると、中から出てくるのは、にせの果実というわけだ。

(竹内久美子「ワニはいかにして愛を語り合うか」)