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課題集 ヒイラギ3 の山

○自由な題名 / 池新
○私の好きな本 / 池新

○いたかった思い出 / 池新
○バスにのっても / 池新
 バスにのっても、ぼくはずっとバス代のことを考えていた。おかげで吐き気を感じる暇がなかったけど、気分は吐き気をもよおすのとおなじくらいすっきりしなかった。病院のバス停に到着するまでに、なんとかもっともらしい嘘をでっちあげた。
 病院のあるバス停についたのは、夕焼けも色あせた、夜も間近の遅い時間になってからだった。ぼくと弟がバスをおりると、びっくりしたことに、母がバス停にいて出迎えてくれた。母は寝間着の上に綿入りの羽織を着て、いつものやさしい笑顔でぼくたちに笑いかけた。弟が母に飛びついていった。どうして母がバス停にいるのだろう? 不思議に思いながらも、それでも母がバス停でまっていてくれたのはうれしかった。
「まあまあ、二人ともよくきたわねえ」
「うん。伸二のやつが、どうしても母ちゃんにあいたいってきかなくて。そしたら、ぼくも母ちゃんにあいたくなって」
「そう、よくきたわねえ、二人だけで。さあ、病院にいきましょう。家に電話して二人が到着したことをしらせなくちゃ。心配しているよ、爺ちゃんと婆ちゃん。母ちゃん、二人があいにきてくれてとってもうれしいけど、爺ちゃんと婆ちゃんにだまってくるのはもうだめだよ」
「うん。爺ちゃんと婆ちゃん、いくっていえば、だめだっていうから……。どうしてぼくと伸二がくるって知っていたの?」
 母は笑って答えなかった。ぼくの肩をいて病院に向かって歩き出した。弟のやつは母の手をしっかりと握っている。
「二人がどこにもいないので、きっと母ちゃんのところにいったと思って、それで父ちゃんが中央停留所にいってきいたら、キップ売場の人が二人のことをおぼえていたの。父ちゃんね、いまごろバスにのってこっちに向かってるよ。お腹すいたでしょう? ラーメン出前してもらおうね」
 弟が歓声をあげた。ぼくもラーメンが食べられるのはうれしかったけれど、このあとがどういう展開になるのか不安で、弟のように素直に喜べなかった。母は家に電話してぼくたちが到着したことを告げた。それからぼくたちは母の病室で話をした。弟のやつがは∵しゃいで一人でしゃべりつづけた。ぼくはバス代のことが気になっていつもよりは無口になっていた。母はバス代のことについてひとことも問いたださなかった。ラーメンがふたつ、病室に運ばれてきた。母は、ぼくと弟がラーメンを食べるのを笑顔でみていた。ラーメンを食べ終わり、またしばらく三人で話をしてから母が笑いながらきいた。
「バス代、どうしたの?」
「借りてきたんだ、古田の婆さんに……」ぼくは母から目をそむけてしまった。まっすぐにみることができなかった。
「だから、返さないといけないんだ」
 そういえば母も納得して、それ以上のことは問いつめないだろうとぼくは踏んでいた。小学三年生の知恵なんてその程度のものだった。お金を盗んだことの、考えうる最高のいいわけだと思ったけど、そうは簡単にことが運ぶわけはなかった。

(川上健一「翼はいつまでも」)