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課題集 ヒイラギ3 の山

○自由な題名 / 池新

○私の宝物、私の好きな季節 / 池新
○七夕の思い出 / 池新
○若い人達の / 池新
 若い人達の敬語が乱れている、という。しかし、おとなもずいぶん、いいかげんである。
 ――総理の申されまするには……などということばは、議会の中継などを聞いていると、しきりにでてくる。これは、間違いである。
 申されの「れ」は、この文句をしゃべっている人の、総理に対する敬語である。ところが、「申す」というのは「言う」ということばの、へりくだった言い方であって、それでは、「申す」と「れ」とが折り合わない。「総理の言われまするには」とでも言えばよいのだが、あきらかに、謙譲語と尊敬語の混乱使用である。
 もっとも、「総理がもうしまするには」という場合もありうる。しゃべっている人の、総理に対する敬意は別として、総理の下にいる者が、他の人に対してへりくだった言い方をする場合だ。会社の電話の交換手なら、他からかかった電話口で「ただ今、社長がいらっしゃいません」といっては、他に対して失礼だろう。かといって「ただ今、社長はいません」も乱暴だ。適切には「ただ今、社長はおりません」というべきだ。
 つまり「おっしゃる、いう、もうす」の三通りの言い方に対して、「いらっしゃる、いる、おる」が、対応しているわけだ。そして、この対応の、敬語、謙譲語を、さまざまの人間関係で使い分けることは、なかなかむずかしくて、決して、「若い人」だけの乱れではないのである。
 ことに、茶の間のことば、家庭内のことばを、そとにそのまま持ち出すことは、全くおかしい。そして、これも決して若い人だけの錯乱混用ではなく、相当の年輩の人でもよくやりそこなっている。
 今はもう、六、七十歳に達しているはずの老婦人たちが、今から三十年ほど前そういう錯乱混用をわたしの前で実演したのには、驚いた。わたしがまだ二十二、三歳、大学でたての教員で、中学校の教師となった折のことである。父兄会で面接すると、母親たちが、実にめちゃめちゃなのである。
 ――おにいちゃんの方は、ほうっておいても、一人でどんどん勉強するのですが、ぼくちゃんの方は、少しも勉強しません。∵
 わたしは、その「ぼくちゃん」の担任として、その、おにいちゃん、ぼくちゃんの兄弟の母親と、話しているのである。
 ――あの子もかわいそうで。何しろおとうちゃまが、やかましゅうございまして。
 わたしの面接している女性の亭主が「おとうちゃま」なのである。そしてこれらの例は、戦前、昭和十年代に、わたしを驚かせたことばづかいである。今の若い人達だけを、とやかくいうことはできない。
 問題の一つは、社会における人間関係の変わり方の激しさである。敬語ということばづかいの体系を支えて来ていた、旧社会の、目上、目下、長幼序ちょうようじょありの根本的な感覚が、変わってしまえば、そうした感情なしに使えば、形式のまねぞこない、ということも起るだろうし、第一に、初めから、使おうともしなくなってしまうであろう。それは、敬語のことばづかいが乱れたのではなく、その背後の社会的人間関係が変わり、特に、目上だから、先生だから、親だから、というだけで、まず尊敬する、という感情が失せたのである。だとすれば、敬語の乱れを叱る前に、そういう変化をどう認識するかが、大事である。
 ふだんのことばづかいと、よそゆきのことばと、使い分けることは、必ずしも賛成しないけれども、茶の間と会社とでは、自然とそこに相違がある。それならば、少なくとも、そとの人間関係においては、ていねいなことばを使うことは、必要であろう。そのことぐらいは教えなくてはなるまい。若い人が流行語を盛んに使うことなどは、さして心配することはない。自分で自分を規制しうる者なら、そう不快なことばなどは使わないからだ。

(池田弥三郎「暮らしの中の日本語」)