昨日483 今日249 合計155596
課題集 ヘチマ3 の山

○自由な題名 / 池新
○この一年、新しい学年 / 池新


★小雨が靄のようにけぶる / 池新
 小雨が靄のようにけぶる夕方、両国橋を西から東へ、さぶが泣きながら渡っていた。
 双子縞の着物に、小倉の細い角帯、色の褪せた黒の前掛をしめ、頭から濡れていた。雨と涙とでぐしょぐしょになった顔を、ときどき手の甲でこするため、眼のまわりや頬が黒く斑になっている。ずんぐりしたからだつきに、顔もまるく、頭が尖っていた。――彼が橋を渡りきったとき、うしろから栄二が追って来た。こっちは痩せたすばしっこそうな(からだつきで、おもながな顔の濃い眉と、小さなひき緊った唇が、いかにも賢そうな、そしてきかぬ気の強い性質をあらわしているようにみえた。
 栄二は追いつくとともに、さぶの前へ立ち塞がった。さぶは俯向いたまま、栄二をよけて通りぬけようとし、栄二はさぶの肩をつかんだ。
「よせったら、さぶ」と栄二が云った、「いいから帰ろう」
さぶは手の甲で眼を拭き、咽びあげた。
「帰るんだ」と栄二が云った、「聞えねえのか」
「いやだ、おら葛西へ帰る」とさぶが云った、「おかみさんに出ていけって云われたんだ、もう三度めなんだ」
「あるきな」と云って栄二は左のほうへ顎をしゃくった、「人が見るから」
 二人の少年は橋のたもとを左へ曲った。雨は同じような調子で、殆んど音もなくけぶっていた。
「おらほんとに知らなかったんだ」とさぶが云った、「ゆうべ粉袋を戸納とだなへしまってたときに、勝手で使うから一つ出しておけって、おかみさんに云われた、だから一つだけ残しといたんだ、そしたらその袋が出しっ放しになってて、おかみさんは使ったあとでしまっとけって、その袋を返したのに、おれがしまい忘れたっていうんだ」∵
「癖だよ、癖じゃねえか」
「粉が湿気をくっちゃった、へまばかりする小僧だって」さぶは立停って、手の甲で眼のまわりをこすりながら泣いた、「――おら、返してもらわなかった、そんな覚えはほんとにねえんだ、ほんとに知らなかったんだ」
「癖だってば、おかみさんはなんとも思っちゃあいねえよ」
「だめだ、おら、だめだ、ほんとにとんまで、ぐずで、――自分でも知ってた、とても続けられやしねえ、もうたくさんだ」さぶは喉を詰らせた、「おら、思うんだが、いっそ葛西へ帰って、百姓をするほうがましだって」
 広い河岸通りの、右が武家屋敷、左が大川で、もう少しゆくと横網になる。折助とも人足ともわからない中年の、ふうていのよくない男が二人、穴のある傘をさして、なにかくち早に話しながら、通りすぎていった。その男たちの、半纏の下から出ている裸の脛が、栄二にはひどく寒そうにみえた、さぶはあるきだしながら、小舟町の「芳古堂ほうこどう」へ奉公に来てから三年間の、休む暇もなくあびせられた小言と嘲笑と平手打ちのことを語った。それは訴えの強さではなく、赤児のなが泣きのような、弱よわしく平板なひびきを持っていた。大川の水がときたま、思いだしたように石垣を叩き、低い呟きの音をたてた。
「奉公が辛いのはどこだっておんなしこった、おかみさんの口の悪いのは癖だし」と栄二はつかえつかえ云った、「それにおめえ、女なんてもともと、――車だ」
 栄二がさぶの腕に触り、二人は立停って川のほうへよけた。からの荷車を曳いた男がうしろから来て、二人を追いぬいていった。
「腕に職を付けるのはつれえさ」と栄二は続けた、「考えてみな、葛西へ帰ったって、朝から晩まで笑ってくらせやしねえだろう、それとも百姓はごしょう楽か」∵
「葛西のうちなら」とさぶが云った、「出ていけなんて云われることだけはありゃしねえ」
「ほんとにそうか」
 さぶは返辞をしなかった。栄二も返辞を期待していなかった。さぶは葛西にある実家のことを考えてみた。腰の曲った喘息持ちの祖父、気の弱い父と、男まさりで手の早い母、朝から母と喧嘩の絶えない口やかましい兄嫁、三人いる弟妹と、呑んだくれの兄と、五人もいる甥や姪たち。うす暗く煤だらけな、古くて狭くて、ぜんたいが片方へ傾いている家や、五反歩そこそこの痩せた田畑など。さぶは途方にくれ、しゃくりあげながら、またあるきだした。
「おめえにゃあ田舎がある」いっしょにあるきながら栄二が云った、「どんなうちにしろ帰るところがあるからいい、だがおらあ親きょうだいも身寄りもねえ独りぼっちだ、今年の春、おらあ店を追ん出されるようなことをしちまった、追ん出るか、どっちか一つという、とんでもねえことをしちまったんだ」
 さぶはそろそろと振り向いて、栄二の顔を見た。好奇心からではなく、戸惑ったような眼つきであった。栄二はふきげんな、怒ってでもいるような口ぶりで、自分が去年から幾たびか帳場の銭をぬすみ、それを主婦のお由にみつかったのだ、と告白した。
 お由は二度だけしか見なかったのだろうか、それともすっかり知っていて、わざと知らないふうをよそおったのか、いずれにもせよ、栄二は死ぬほど恥じ、もう店にはいられないと思った。自分をぬすっとだなどとは考えもしなかったが、銭箱から銭をつかみだした自分の姿が、あさましくて恥ずかしくて、そのまま店にいる気になれなかったのだ。∵
「だが、店をとびだしてどこへゆく」と栄二は続けた、「おらあ八つの年、大鋸おおのこ町で夏火事にあい、両親と妹に焼け死なれた、おれ一人は白魚河岸へ釣りにいっていて助かったが、ほかに身寄りは一軒もなかった、おやじは伊勢から出て来たと云ってたが、伊勢のどこだかおらあ覚えちゃいねえし、覚えていたって頼ってゆけるもんじゃあねえ、おらあそのときくれえ自分にうちのねえことが悲しかったこたあなかった」
「知らなかった、おら、ちっとも知らなかった」とさぶが呟いた、
「――それで栄ちゃんは、がまんしたんだね」
「銭も二度とはぬすまなかった」
 二人は横網の河岸まで来てい、さぶが立停って、地面をみつめ、濡れて重くなった草履の先で、地面を左右にこすった。

(山本周五郎「さぶ」)