昨日270 今日210 合計152570
課題集 ヘチマ3 の山

○自由な題名 / 池新
○春を見つけた、種まき / 池新
○うれしかったこと、がんばったこと / 池新

★ 我が家では正月に / 池新
 我が家では正月になると、一家全員で写真館に記念写真を撮りに出かけることが、松の内の行事であった。写真館に行く日取りや時間は、年末に連絡がしてあって、たいていは元旦の食事が終ってから全員で出かけた。両親と子供六人にお手伝いさんが加わる。大変だった。写真館は駅前にあって、毎年、同じ主人が同じベレー帽をかぶって現われた。
 父は写真が好きで、正月、墓参り、それに子供の入学式、卒業式には必ず写真館に皆を連れて行った。入学式や卒業式は制服で行ったが、それ以外の記念撮影の時には父は姉達が制服を着て行くことを嫌った。
 一度、元旦の朝、台所で姉がセーラー服を着て立っていた。母は困った顔をして姉を説得していた。写真館での撮影が終ると、いつもそのまま子供達は遊びに出かけていいことになっていたので、たぶん姉は友達と初詣か何かの約束をしていたのかも知れない。
 姉は違う服に着替えて食膳に座った。そこで思い切って父に、今年の記念写真はセーラー服で行ってよいか、と言った。父は姉の顔をじっと見て、
「正月の着物を用意してもらわなかったのか」
と低い声で言ってから、母をみた。父の声が低くなる時は、怒り出す一歩手前だった。父がいったん怒り出したら、家の中の全てが止まってしまう。その怖さは、家族全員おそろしいほど知っていた。
 近頃、取材で写真を撮られることが多くなった。私は写真を撮られることが苦手である。もう少し自然に、と言われても頬がひきつるばかりで、迷惑をかけることが多い。それでも子供の頃に比べると格段の進歩である。
 特に写真館の撮影がいけなかった。どうしてかわからないが、あのフラッシュを焚かれると十中八九、目を閉じてしまった。
「はい、もう一度。ちょっと坊ちゃんが目を閉じましたよ」∵
とベレー帽の主人が私に片手を差しのべるようにして、丁寧な口調で言う。ベレー帽の口元は笑っているのだが、その目は、またこの坊主が目をつぶった、という表情をしていた。
 写真は十日くらいで出来上ってきた。そこで私は笑い者になった。目を閉じていたはずの私が、フランス人形のようにマツ毛の長い少年になっている。姉達が噴き出すほどの修整がされていたのである。
 一度、記念写真が撮り直しになったことがあった。私の顔の修整写真を見た父が怒り出したらしい。嫌なことになったと思った。
 写真館に行く前の夜、母は私に写真を写される要領を教えてくれた。
 フラッシュが光った時に目を閉じるのは、それまで目を開けよう開けようとしているからだ、だからそれまでは薄目にしているように、と母は言った。そうして私の背後にいる母が、撮影の瞬間に私の背中を指で突いて、合図をすることになった。これはなかなかの名案だと思った。
 翌日の夕暮れ、全員で写真館に行った。父は撮影の前に別室で主人に小言を言っていた。地声の大きい人だったから、その話がスタジオで待つ全員に聞えた。私はよけいに緊張した。母を見ると笑って指を突き立ててポンと叩く仕種をした。写真館の主人が現われた。彼は額に汗をかいていた。私と主人の目が合った。それぞれの位置が決まると、写真館の主人が私の顔をじっと見て、
「坊ちゃん、もう少し目を開けましょうか」
と言った。しかし私は母との約束で、薄めを開けたままにしていた。
「坊ちゃん、もう少し……」
と主人がまた言うと、
「何しとるんだ」
と父が大声で怒鳴った。すると、∵
「大丈夫です。撮って下さい。どうぞ」
と母が大きな声で言った。母が父の前でそんな声を出したのを、私は初めて聞いた……。
 あの頃、我が家にとって一家揃ってどこかへ出かけるということは大変なことだった。母は数日前からなにかと準備をしていた。しかし今考えてみると、母は父が癇癪を起さないようにと気を配っていたのではなく、一家全員が顔を揃えることが生活の中の節目節目の時にしかないことをよく知っていて、家のしきたりのようなものをちゃんと子供達にも躾ようとしたのではないかと思う。
 年を越せない家族がまだ沢山いた時代だった。昼も夜も働いて、六人の子供や何十人かの従業員と無事に新しい年を迎えるということは大変なことだったはずだ。全員が元気に年を越せた証の行事を、母が一番喜んでいたのではないだろうか。
 いつの頃からか、私や姉達は正月に帰省しなくなった。
 元日の朝、緊張して父の前に並んだ母や姉達、そして私がいた。その時間が今ひどく大切なものに思えて仕方がない。懐かしんでいるのではない。正座をして目上の人の前に座るように、家族が元日という時間の前に正座をしていたように思う。あの張りつめた時間は、ピンと張った家族の糸だったのではなかろうか。
 母が私の背中を押してくれた日の写真。私は前に突んのめって、ビックリした顔で写っている。目は、開きすぎるほど開いて……。

(伊集院静「正月の風景・家族の糸」)