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課題集 ヘチマ3 の山

○自由な題名 / 池新
○バレンタインデー、もうすぐ春が / 池新


★うるせえんだよ、あいつ / 池新
「うるせえんだよ、あいつ」「ったく、ちょームカつくよな」――少年ではない。少女たちの会話である。電車のなかや街で、こういった言葉づかいを耳にすることは、珍しくない。
「最近の女の子ときたら、まったく嘆かわしい」と嘆息されるかたも多いだろう。身内にそういう女の子がいれば「なんて言葉をつかうんだ。はしたない」と叱る人も多いと思う。
 なぜ、彼女たちは、このような乱暴な言葉づかいをするのだろうか。ひとつは、「女らしさ」という社会通念を破ることへの、爽快感ではないかと思う。「女の子は女の子らしく」という、ある意味では大人からの押しつけの価値観がある。それへの反発ではないだろうか。
 乱暴な言い方を初めて試してみたとき、やはり彼女たちには彼女たちなりの、抵抗感があったことだろう。が、ひとたび垣根を越えてしまうと、意外なほど、らくちんでさっぱりした世界が広がっていた。
 今ほど極端ではないけれど、私が高校生のころは、女子生徒のあいだで、自分のことを「ぼく」と呼ぶのが流行っていた。私自身、初めて自分のことを「ぼく」と言ってみたとき、なんともいえない不思議な気分になった。その不思議さは、やがて気持ちよさに変化する。つながれていた紐がぱっと消えたような解放感だった。母親はとても嫌がったけれど、結局卒業するまで、私は「ぼく」だった。
 たぶん同じような解放感を、味わっているのだろうなと思いつつ、今の少女らを観察している。が、ときには、これはもっと根深いものをはらんでいるのかもしれない、と思うこともある。男言葉以上に乱暴な表現を耳にしたりすると、なんだか痛々しい、とさえ思えてくる。無理にそこまで自分をもっていかなくてもいいんじゃない? もっと肩の力を抜いたら? と話しかけたくなる。
 乱暴な言葉で自分のまわりを固めることによって、傷つきやすい心を、彼女らは守っているのかもしれない。
「ざけんじゃねえよ」「おまえにガタガタいわれたくねえな」――ごつごつしてとんがった言葉を、鎧のように身につける少女た∵ち。彼女らは、何をそんなに警戒しているのだろうか。
「女の子らしい言葉をつかいなさい」と叱ることは簡単だ。が、汚れたTシャツを脱ぐのとはわけが違う。言葉は、心を映すものだから。

(俵万智『かすみ草のおねえさん』)