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課題集 ヘチマ3 の山

★校庭の隅の水道場で/ 池新
 校庭の隅の水道場で、蛇口に口をつけて水を飲んでいる竜夫の頭上で、あっという声が聞こえた。竜夫が顔をあげると、同じクラスの女生徒が薄笑いを浮かべて立っていた。
「いまそこで英子ちゃんも水を飲んだがや。英子ちゃん、きっと喜ぶわァ……」
「だら、変なこというな」
 竜夫は口や顎を濡らしたまま、校庭を走っていった。どこをめざして走っているのか判らなかった。その女生徒の思いがけない言葉で顔を火照らしていた。
 授業が始まると、竜夫は窓ぎわの席に座っている英子を何度も盗み見た。
 竜夫は授業が済み教室を出て廊下を歩いていく英子をうしろから呼び止めた。
「銀爺ちゃんが蛍狩ほたるがりに行こうって。英子ちゃんも一緒に行かんけ?」
「……あの螢のこと?」
 英子は銀蔵の話を覚えていた。
「うん、今年はきっと出よるって。ことしを外したら、もういつ出よるか判らんて銀爺ちゃんが言うとるがや」
 英子はもともと無口な娘であった。竜夫の肩のあたりに目をやりながら、黙って考えこんでいた。中学に入って、こうやって二人きりで言葉を交わすのは初めてのことだった。
「いつ行くがや」
「……まだ判らん、田植の始める頃が、螢の時期やと」
「母さんに聞いてみる」
「おばさん、きっと駄目やって言うに決まっとる」
「……なァん。そんなこと言わんよ」
「英子ちゃんは行きたいがか?」
「うん……行きたい」
 同じ年頃の娘たちと比べると、英子はそんなに背の高いほうではなかったが、それでも一時期竜夫たつおよりも大きかった時がある。∵竜夫が晩生おくてだったからだが、いまこうして並んでみると、いつのまにかはるかに竜夫の方が大きくなっていた。
 竜夫はふと英子に関根のことを話したい衝動にかられた。自分の前から永久に姿を消してしまった友もまた、自分と同じように、いやひょっとしたら自分よりももっとひたむきに、英子にかれていたのであった。
「関根が英子ちゃんの写真を持っとったがや」
 と竜夫は言った。英子は決して関根のことを悪く思わないだろうという確信があった。
「……写真?」
「うん。英子ちゃんの机から盗んだがや」
 思い当たるように、英子は目を見ひらいて、遠くに視線をそらした。日ざかりの道を自転車に乗って遠ざかっていく関根圭太の最後の姿を思い出すと、竜夫は突然英子に対して無防備になっていった。
「その写真を、俺、関根からもろたがや。友情のしるしやと言うて、関根がくれたがや」
 その時、級友たちが廊下の向こうからやってくるのが見えた。竜夫は慌てて、英子に言った。
蛍狩ほたるがり、行く?」
「うん、行く。母さんに頼んでみる」
 竜夫は教室に駈けもどった。誰かに話しかけられて、それに答え返す竜夫の声が、いつまでも上ずっていた。
 次の授業が始まってすぐ、用務員が教室に入ってきて、教師に何やら耳打ちした。教師は竜夫の席まで来ると、
「校門のところでお母さんが待っとられるから帰れ……」
 と囁いた。竜夫は、父が死ぬのだとその瞬間思った。教室を出ていく竜夫たつおを級友たちは一斉に見つめていた。窓ぎわの英子の顔がぼっと白くかすんで見えた。 (宮本輝『螢川』)