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課題集 ヘチマ3 の山

○自由な題名 / 池新
○クリスマス、おおみそか / 池新
★除夜の鐘、お正月、私の宝物 / 池新

○旅は一人でするのが / 池新
 旅は一人でするのがいいだろうか。誰かと二人でするのがいいだろうか。それとも、グループでするのがいいだろうか。これは意外に答えにくい難問である。がそれでも、一度考えてみるにあたいする問題を含んでいるといえるだろう。なぜなら、旅を一人でするか、二人でするか、それともグループでするかによって、同じく旅とはいってもかなり性格のちがったものになるからである。
 本当に旅の好きな人は、ふと思い立ったときに一人でぶらりと旅に出かける、といわれる。日常の人間関係のしがらみから離れ、足のおもむくままに旅をするには、一人の旅がいちばんいいであろう。誰と相談する必要もなく、自分一人の思うがままにどこへでも行くことができる上に、旅の仕方についても誰の遠慮もいらないからである。旅の在り様として自由と偶然性をもっともよく享受できるのは一人旅である。また、旅先でもっとも直接に現実と触れうるのも、自分をよく見つめうるのも、一人の旅であろう。
 定住社会のなかに生きていると、ひとはしばしば、日常生活のわずらわしいしきたりや拘束をのがれて一人でふとどこか遠いところへ行ってしまいたくなる。が、実際にそれができる人はきわめて少ない。ほとんどの場合、ただそうしたいと心に思うだけで実行はできず、したがって思いだけがつのるようになる。だからこそ、人々の間で自由で奔放な一人旅=放浪への願望が根づよいのであろう。そして、放浪という名の一人旅には、絶対的自由へのあこがれがある。
 このように、たしかに旅は一人でするとき、本人にとってもっとも自由で解放的で冒険に富んだものになる。また一人旅では、ほかに相談する相手が身近にいないから、すべてにつけて自分で思案しなければならない。そのために、自分自身との間での対話を活発に行なわなければならないことになる。一人旅では私たちは、そういうかたちで旅先での現実に相対するのである。けれどもこれは実際には、なかなかたいへんで骨の折れることであると、息をぬくひまがなく、心の余裕がなくなるからである。そのために緊張の連続が強いられ、どうしても隙ができてしまう。∵
 だから一人で異国の旅をしていると、ほとんど不可抗力に近いかたちで、荷物の一部を置き引きされたり、スリに出会ったりするのである。かく言う私自身、先達せんだってもミラノの街で三人組のスリに出会って、半ば気がつきながらみすみすかなりの大金を盗られてしまった。相手があまりにもみごとな腕、みごとなチーム・ワークだったので――もちろん盗られたことは腹立たしく、その後何日も不愉快でしょうがなかったけれど――実はちょっと感心さえしている。
   (中 略)
 られた金は、私にとってかなりの大金だったけれど、幸い、旅行をつづける上で支障になるほどではなかった。しかしその後しばらくの間、旅行をしていてもどうしても必要以上に他人に対して警戒心が働いてしまい、ひどく気が疲れた。そういうときほど、一人で旅をしていること、相棒なしに旅をしているのがうらめしく思われることはない。相棒あるいは道づれがあったからといって、スリに会う心配がまったくないというわけではないけれど、二人になれば注意の及ばない死角はずっと少なくなるし、行動にずっと余裕がもてるようになる。
 それに同行者としていい相棒が得られれば、旅をする上でなにかと好都合な相談相手になるし、話し合うことで旅での経験を確かめ合うこともできる。ただし実際には、この道づれのえらび方はたいへん難しい。不適当な道づれをえらべば、互いに相手の自由な行動を牽制し合ったり、束縛し合ったりすることになるだろう。互いに相手の独立性と自由をできるだけ尊重しながら、しかも必要なとき、いざというときには力になり合い、よき相談相手になるような関係がもっとも望ましいわけだ。いや、それほど理想的な関係が成り立たなくとも構わない。旅において道づれがいることは、自分以外のもう一つの眼=他者を含み、その他者との対話をもちうるという点で貴重なことなのである。
 では次に、グループの旅はどうであろうか。一口にグループでの∵旅といっても、気心の知れた親しい友人たちとの少人数の旅の場合と、いわゆる団体旅行、セット旅行の場合とでは、一緒には考えられない。前者の場合には、グループでの旅といっても、よき道づれとの二人での旅と本質的にはあまり異ならないものでありうる。うまくいけば、人それぞれの独立性と自由を保ちうるからである。また、自己と他者との関係が固定的でなく可動的だから、その関係がうまく生かされれば、旅はいっそう豊かなものになるだろう。
 ただし人数があまり多くなると、人それぞれが旅先で現実にふれることよりも、グループ内の相互のふれ合い、付き合いの方に重点がかかってくる。だからグループでの旅はしばしば移動する宴会のようなものになるのである。いわゆる団体旅行、セット旅行の場合には、あらかじめ決められたコースがあって、スケジュールもびっしりつまっているから、また、バスに乗ったままでお目あてのところに連れていってくれるから旅ならではの独立性、自由、偶然性、異質の現実などとの接触が著しく弱くなる。もちろんそのようなグループ旅行も使い方によるし、そこで収穫にめぐまれることもあるけれど、その場合、旅のあり方も同行者のあり方もずいぶんちがってきているわけである。

(中村雄二郎「知の旅への誘い」)