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課題集 ヘチマ の山

○自由な題名 / 池新
○私の夢 / 池新
★清書(せいしょ) / 池新

○十年ほど前、ボルドーの近くを / 池新
 十年ほど前、ボルドーの近くを走っていて、くるまの接触事故をおこしたことがある。人身には何の影響もなかったし、こちらの日本製の車体がへこんだくらいで、何と日本のくるまは弱いんだといまいましいくらいのものであったが、――それにこちらにも言い分があり、相手にも幾分の非があったのだが――。
 それでも口をついて出たのは「すみません」ということばであった。相手は朴訥な農民夫婦で「はじめてパリへ行って無事故で帰ってきたのに……」と愚痴をさんざん並べていた。
 しばらくして「しまった」と思った。「すみません」とは、あやまり文句である。こちらがあやまってしまえばもうそれでおしまい。非はすべて当方がかぶらねばならない。
 そのことは、フランスへ来て、くどく言われていたのだ。問題をおこしたら、ぜったいにあやまってはいけない。こちらの責任がいくら明白なときでも、まず「なんじとがガアル」(?ous avez tort.)と言うべきである。そうでないと、賠償責任はすべてこちらが負わねばならぬ。「すみません」とは口が裂けても(――はちと大げさだが)言ってはならぬ。自動車保険の契約の注意書にさえ「事故のときにあやまってはならぬ」と書いてある。にもかかわらず、日本人である私はつい「すみません」と言ってしまった。習慣はおそろしいものである。
 リリアーヌ・エルという女性は「あやまるということ」(『うしお』昭和五十三年四月号)というエッセイの中で、日仏比較文化のおもしろい観点を出している。日本人は簡単にあやまる。フランス人はなかなかあやまらない。どうしてか、という問題である。彼女の引いている例は、仲間を裏切ったやくざが、のちに仲間にリンチを受けるというテレビドラマの場面である。彼女は同じ状況を描いたドラマを日本とフランスで見た。状況と結果はまったく同じである。どちらも、見下げた奴として仲間に憐まれ、ゆるされる。ところが、その過程の、憐みを乞う文句がちがう。日本だと「悪かった! 許してくれ」と言い、フランスだと「おれが悪いんじゃない! 殺さないでくれ」と言う。まるで正反対である。∵
 ここで私が言いたいのは、フランスでの「自分が悪かった」ということばの重みである。神の前で自己の全人格を否認するということ、それが自分の悪をみとめるということである。これは勇気ある行為である。もし、やくざがそんな勇気ある行為を示せば、人は彼を尊敬し、そして簡単に殺してしまうだろう。憐みを乞うたことにはならないのだ。憐みを乞う場合は、状況が悪かったとくどくどと弁解しなければならないのだ。
 日本ではちょうど逆である。弁解すれば、憐みはかけてもらえぬ。弁解は理屈であり、理屈は卑怯である。ただ一言、悪かったとあやまる。この頭を下げるというのが、日本社会でゆるしのえられる唯一の行為である。
 「悪かった」と言っても、日本では勇気ある行為とはいえない。みんな、いつでも「悪かった」とあやまる。つまり社会的定型である。人は、定型によって憐みを求め、定型によって憐みを与える。物を言っているのは、文化の型である。
(中略)
 絶対の罪というものはない。しかし、おたがいに小さな悪、小さな迷惑をかけあっている。それは無意識の領域にちらばっているので、いちいちとりたてては言えないくらいである。だから、たえず「すみません」と言う。「すみませんで済むか」と言われればその通り、といった重大な場面では、「ではどうすれば済むのですか、あなたの気持ちの済むようになさってください」という「すみません」の語源に迫るような科白せりふも出てくる。もっとも「どうすれば済むのか」という反問じたい、あやまる文化の型にそむいている。これは日本では反抗であり皮肉である。
 というわけで、もっぱら私たちは腰を低くしている。日本文化の型になじんだ外国人のなかには、腰を――というより背をかがめて愛想笑いをふりまく人もいる。いつだったか、約束をたがえた外国人がおり、その人物、次に私に会ったとき、彼は「日本ふう」に背を海老のようにまげ、謝罪したものである。その極端な姿勢∵におどろいた。私たちは、外国人という鏡に映った自分たちの文化の姿におどろくのである。

 エルさんはフランス人の論理好きには、二つの種類があるという。客観的、普遍的な論理と、もう一つは、自分の立場をあくまで正当化しようとする論理癖と、である。後者の、いわばフランス人の癖のようなものが前者を形づくり、前者が逆に、後者の癖を助長するということがあるのだろう。
 とりあえずあやまるという日本文化には、人と人とのつながりをなめらかにするという普遍的知恵に通じるものがある。同時に、何でも「すみません」で通そうとするあつかましさもある。済むとか済まないとか――そんなことを意識しないで、ともかく「すみません」と言っている。感謝でも謝罪でもない。「すみません」というのは、あやまる文化の型をつたえることばである。同時に、安直なことばでもある。後者はむしろ、伝統をなしくずしにする面がある。
 ひとつのことばをめぐって、伝統と、それをなしくずしにしようという力と、その双方がせめぎあっているようである。
 ことばはむずかしいものである。ことばの解釈もむずかしいものである。外国人は、あやまる文化に卑屈さを見いだして感心したりするが、事は(少なくとも今は)それほど簡単ではないように思われる。

(多田道太郎『日本語の作法』)