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課題集 ハギ3 の山

○自由な題名 / 池新
○家族(かぞく)の長所 / 池新


★自分らしさ、っていったい / 池新
 自分らしさ、っていったい何なのだろうか。その人らしさ、個性、とは、どのようにしてできあがるものなのだろう。自分らしさは自分でだんだん外側へつくりだしていくもの、という考え方や感じ方があるようだ。ちょうど、雪だるまをつくるときのように、新しいものをだんだん外側へくっつけて、自分をふくらませていくというイメージだ。
 しかし私は、自分らしさとか個性というものをそのようなイメージでとらえてはいない。それは、自分でつくり出すものではあるけれど、同時に自分で自分の内側を発見していくものなのだと思っている。自分の中には、はじめから自分らしさがちゃんと備わっている。その自分の声に耳を澄ませながら、自分らしさを見つけだしてゆくことが、自分を探す旅であり、自分の人生を生きるということなのではないだろうか。
 そのイメージは、雪だるまをつくるようなものではないとすれば、むしろ果物の実がふくらみ、熟れてゆくありさまに似ている。外側へふくらみつつ、内側に備わった自分の味を実らせてゆく。りんごはりんごの、桃は桃の味を、たしかに見いだして、内側を充実させてゆく。外側への広がりと、内側の実りが、果実の成熟である。
 りんごはりんごの、桃は桃の味、と言った。すみれはすみれの、マーガレットはマーガレットの花の色、と言ってもよい。決してひとは生まれたときは白紙ではないし、成長とともに環境によって染められるだけのものではない。
 ところが、ひとは生まれたときは白紙で、そこには何でも書きこめるし、自由に作れるという考え方がある。たとえば、ある心理学者は、「わたしにひとりの正常な赤ん坊を与えてくれて、しかも環境を自由に操作することを許してくれたなら、その子をどんな人間にもしてみせるし、どんな職業にもつかせてみせる」という意味のことを言った。人間をどのようにもつくれるという考え方をとらない心理学者もいるけれども、しかしさきにひいた言葉のように、ひとは環境をととのえればどんなふうにも自由につくれるという考え方は、いまの世の中にかなり根づよくはびこっている。けれども私は、その考え方は誤りだと思っているし、むしろ危険な考え方だと思っている。それとは逆に、「子どもは白紙ではなく、∵一冊の本である」といった人がいる。その本を、大人は心をこめて読んでいこう、というのである。この考え方の方が私はずっと好きだ。その私の考え方や感じ方は、私が太郎と次郎というふたりの子どもと長いことつきあってくる中で、しだいにはっきりとしてきたものだ。また、子どもたちについてだけでなく、自分自身というものについても、だんだん明確な考え方がもてるようになってきたといえる。
 子どもを育てながら、母親たちはいろいろなおしゃべりをする。その中にしょっちゅう登場する次のような話題がある。それは、「同じ両親から生まれて、同じように育てているつもりなのに、きょうだいでもぜんぜん違うわねぇ」というような言葉である。「そうね、だから子どもを育ててると面白いのねぇ」などと話は続いていく。
 あなたに、もしきょうだいがいたら、やっぱり自分ときょうだいのことをそう思うのではないだろうか。同じ親から生まれ、同じ家庭で育っても、ひとりひとりはおもしろいほど違う。長子と次子のちがいだとか、ひとりっ子の性格だとか、環境論をとなえる人々は言う。けれど、どうもそれでは説明のつかない色あいの違い、持ち味の違いのようなものが、ひとりひとりの核にあるというのが、子どもとよくつきあったことのある人の実感なのだと思う。

(小澤牧子「自分らしく生きる」)