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課題集 ハギ3 の山

○自由な題名 / 池新
○私の夜(よる)、カタツムリを見つけたこと / 池新
○雨の日、スリルがあったこと / 池新

★二年前、私は妹をお供につけて / 池新
 二年前、私は妹をお供につけて母に五泊六日の香港旅行に行ってもらった。
「死んだお父さんに怒られる」とか「冥利が悪い」と抵抗したが、もともとおいしいもの好きで、年にしては好奇心も旺盛な人だから、追い出してさえしまえばあとは喜ぶと判っていたので、けんか腰の出発だった。
 空港で機内持ち込みの荷物の改めがある。私は、母と妹が係官の前でバッグの口をあけているのをプラスチックの境越しに見ていた。
「ナイフとか危険なものは入っていませんね」
 係官が型の如くたずねている。私は当然「ハイ」という答を予期したのだが、母は、ごく当り前の声で、
「いいえ持っております」
 私も妹もハッとなった。
 母は、大型の裁ちばさみを出した。
 私は大声でどなってしまった。
「お母さん、なんでそんなものを持ってきたの」
 母は私へとも係官へともつかず、
「一週間ですから爪が伸びるといけないと思いまして」
 係官は笑いながら「どうぞ」といって下すったが、私は、中の待合室でなぜ爪切りを持ってこなかったのと叱言こごとをいった。
「出掛けに気がついたんだけど、爪切り探すのも気ぜわしいと思って」
 言いわけをしながら「お父さん生きてたら、叱られてたねえ」
とさすがに母もしょんぼりしている。(中略)

 祖母が亡くなったのは、戦争が激しくなるすぐ前のことだから、三十五年前だろうか。私が女学校二年の時だった。
 通夜の晩、突然玄関の方にざわめきが起った。
「社長がお見えになった」
という声がした。∵
 祖母の棺のそばに坐っていた父が、客を蹴散らすように玄関へ飛んでいった。式台に手をつき入ってきた初老の人にお辞儀をした。
 それはお辞儀というより平伏といった方がよかった。当時すでにガソリンは統制されており、民間人は車の使用も思うにまかせなかった。財閥系のかなり大きな会社で、当時父は一介の課長に過ぎなかったから、社長自ら通夜にみえることは予想していなかったのだろう。それにしても、初めて見る父の姿であった。
 物心ついた時から父は威張っていた。家族をどなり自分の母親にも高声を立てる人であった。地方支店長という肩書もあり、床柱を背にして上座に坐る父しか見たことがなかった。それが卑屈とも思えるお辞儀をしているのである。
 私は、父の暴君振りを嫌だなと思っていた。
 母には指環ひとつ買うことをしないのに、なぜ自分だけパリッと糊の利いた白麻はくまの背広で会社へゆくのか。部下が訪ねてくると、分不相応と思えるほどもてなすのか。私達姉弟がはしかになろうと百日咳になろうとおかまいなしで、一日の遅刻欠勤もなしに出かけていくのか。
 高等小学校卒業の学力で給仕から入って誰の引き立てもなしに会社始まって以来といわれる昇進をした理由を見たように思った。私は亡くなった祖母とは同じ部屋に起き伏した時期もあったのだが、肝心の葬式の悲しみはどこかにけし飛んで、父のお辞儀の姿だけが目に残った。私達に見せないところで、父はこの姿で戦ってきたのだ。父だけ夜のおかずが一品多いことも、保険契約の成績が思うにまかせない締切の時期に、八つ当りの感じで飛んできた拳骨をも許そうと思った。私は今でもこの夜の父の姿を思うと、胸の中でうずくものがある。

(向田邦子「お辞儀」)