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課題集 ハギ3 の山

○自由な題名 / 池新
○私の朝、たまごを使った料理 / 池新
★家族の長所、楽しい先生 / 池新

○男の子が生まれて / 池新
 男の子が生まれて一番嬉しいと思ったのはこのプロレスごっこをはじめとした乱闘あそびができることだ、と私はいつかかなり真剣な顔をして妻に言ったことがある。(中略)がくが二、三歳の頃はまだ彼はプロレスやボクシングというものをよくわからず、抗争は「ウルトラマン対怪獣」という図式になっていた。がくはいつも正義の使者であり、私は宇宙の暗闇からやってきて平和な地球を滅ぼそうとする悪の怪獣という役回りだった。
 がくはこれを「たたかい」と呼んでいた。保育園から帰ってくると「おとう、たたかいしようぜ」と早くも正義の使者の顔つきになって闘争を仕掛けてくるのだ。
 「たたかい」が「勝負」に変ったのはがくが三年生になってからだった。
 それはいつもやられ役だった私がその頃から意図的に時おりこっぴどく彼を痛めつけるようにしたからのようであった。サッカーをはじめたがくの体がしだいに強健になり、すこしぐらい手荒に投げつけても大丈夫、ということがわかってきてから私自身もふざけ半分ではなく本格的に力を込めてたたかうようにした。(中略)
 がくと私の勝負がさらに過激になっていったのは私がパタゴニアの旅から帰ってきてからだった。パタゴニアの旅は氷河の海を航海し、あとはパンパという大草原を動き回っているだけだったので、がくへの土産は何もなかった。そこでチリの一番南の端にあるプンタアレナスという町で私はがくのためのおみやげを制作したのだ。プンタアレナスは小さな港町で港湾用品や金物屋ぐらいしか店がなかった。(中略)そこで風呂の流しの金物や真鍮製の円盤、自動車用のコンドルの飾り物などを買ってきて、ホテルの部屋にとじこもり、それでプロレスのチャンピオン・ベルトの飾りものを作ったのだ。(中略)
 私は家に帰り、そのベルトをがくに見せ、ただでやるわけにはいかないぞ、と言った。おれと闘ってピンフォールで勝ったらこのベル∵トをやろう、と言ったのだ。その晩の闘いは私とがくの闘争史の中でも一、二を争うようなベストマッチとなった。
 二十分の死闘の中で、私はがくの足腰がしばらく会わないうちにさらにまた強靭になり、蹴りやパンチのひとつひとつの威力がずんずんと恐ろしいほどに効くようになっているのを知った。そしてうしろ回し蹴りというすさまじい技をなかばまともにくらって倒れ、ピンフォールされた。まだ私は全力ではやっていなかったが、今日は自分のもっている力の六割ぐらいをきっちり出してやつに負けたな、と畳の上にあおむけになったまま思った。
 そしてがくはその頃から学校での喧嘩ランキングを不動の第一位にしていったようであった。五年生になると学年だけでなく全校でやつが一番強いらしい、という話をがくの仲間の何人からか耳にするようになった。
 そうだろうな、と私は思った。衰えつつあるとはいえ体重七十二キロ、身長一七六センチ、柔道弐段の私をかなり手こずらせるようになっているのである。あいつが本気で怒ったらいまのひょろひょろの六年生などまずかなうまい、と思った。がくのそういう、良いか悪いかわからないけれど、まあそれはそれでひとつの「能力」のようなものを、私はかなり意識的に彼の幼児の頃から「たたかい」という遊びを通してじっくり着実に育ててきたような気がするのだ。(中略)
 私はそんなふうに、「たたかい」の世界をがくにおしえてきたかわりに、その分だけ勉強というのを一切おしえなかった。「勉強しろ」とも言わなかった。そして彼はそちらの方も着実にあからさまにその成果をあらわにしているのだった。「子供にかまいすぎるとどっちにしても失敗するのさ」とクールに言っていた沢野の顔が私の目の前にまたぼんやり浮かんできた。

(椎名誠「続がく物語」)