昨日523 今日129 合計154993
課題集 ハギ3 の山

○自由な題名 / 池新
○秘密基地 / 池新
★清書(せいしょ) / 池新

○ぼくの小さいころは / 池新
 ぼくの小さいころは、買い物をするのに定価のないことが多かった。店の人と世間話から始まって、値切るやりとりがあった。そして、自分が値をきめたような気分が少しはあって、その値段にチョッピリ自分の責任があった。
 もちろん、ドジだと高く買わされる。要領のよいのがトクをする。同じものを買うのに、高く買うのもあれば、安く買うのもいる。まったく、「不平等」だった。
 このごろでは、共同購入などと、代表者にまかせるのまである。そのかわり、みんなが同じ値段で買う。国家と生命の売買をやるのだって、代表者にまかせて、みんなが同じ値段でやるのじゃないかと、時節がら少々不安である。
 ドジを重ねて、要領をおぼえたものだ。それで、ある日急に買い物上手になったりもする。店との相性もあるもので、気に入りの店だと安く買えたりする。なじみがいもあった。ドジが固定するものでもないし、ある店ではドジでも、別の店では要領よくナジミになったりもした。
 いつでもドジだと困るかというと、そうした人間は、店のほうからまけてくれた。ドジにつけこんで、いつももうけていたのでは、店の評判も落ちるのだった。
 そして、要領のよい子を相手にとなると、店のほうでもなかなかシブトイ。値切り合戦というのは、ゲームでもあった。そしてそこには、ヤヤコシイ人間関係があった。
 若い人に聞くと、そんなのメンドクサイ、と言う。金を出して物を手に入れる、それだけならば、だれでも同じ値段で物が手に入るのが「平等」だ。その極端なのは、自動販売機で、機械にお世辞を言っても、まけてくれない。
 しかしぼくは、要領のいいのやドジなのや、さまざまに混じりあって、店も客もさまざまに気を使いあう世の中が、よい世の中だと思う。
 校則だって、守る生徒やら守らない生徒があって、うるさい教師や甘い教師があって、そのなかで叱られたり逃げたり、そのほうが気持ちがよい。このごろの「非行生」の文句に、「他の人間もやってるのに、自分が叱られるのは不公平」というのがある。これは、「非行」それ自体よりも、人間社会にとってよほど危機ではない∵か。
 自分がドジで叱られようが、要領のよい仲間が叱られずにすむことは、喜ぶべきことであるはずだ。「不公平」というのは、ヤッカミ根性のことかもしれぬ。
 問題は自分だけのことだ。他人が叱られようが叱られまいが、どうでもよいことだ。今はドジでも、今度はうまくやればよい。こういうのこそ、「自立してない」と言うんだろうな。せめて「非行生」だけでも自立してほしい。「優等生」が自立してないことは、大学生を相手であきらめてるんだから。

(森つよし「ひとりで渡ればあぶなくない」)