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課題集 ハギ3 の山

○自由な題名 / 池新
○お花見 / 池新
★清書(せいしょ) / 池新

○「ばあちゃん、もう春は / 池新
「ばあちゃん、もう春は来とるんかな」
 ヨウはかまどに薪をくべているるい婆さんに蒲団の中からちいさな顔だけを出して聞いた。るい婆さんはもやのたちこめる暗い土間の隅にしゃがんだままゆっくりとふりむいて、
「春の夢でも見たんかや」
と日焼けした顔から白い歯をのぞかせて言うと、こくりとうなずいた孫娘に、
「ああ、もうとっくに日向ッ原ひなっぱらじゃ春の歌がはじまっとるぞ」
とうれしそうに笑いかけた。
 ヨウはおおきな目をかがやかせて、蒲団を跳ね上げて立ち上がると、土間のサンダルをつっかけ寝間着のまま外へ走り出した。
「こらっ、顔を洗ってから行かんか」
背後で聞こえる、るい婆さんの声にヨウは首を横にふりながら、島の南西を見下ろせる裏手の段々畑までの畔道あぜみちをかけ上がって行った。
 昨日まではぬかるんでいた道をヨウは犬のように跳ねながら走る。イモ畑を越え蜜柑の木の下を抜けて、牛のモグがいる小屋の前にたどり着くと、ヨウは立ち止まって朝陽に光る海を見下ろした。
 半月余り続いた雨が上がった瀬戸内海は無数の波頭なみがしらが西へむかう鳥の群れのように踊っていた。ヨウは肩で息をしながらおおきな目を少しずつ下げて行く。海原にむかって突き出した皇子みこ岬、左手にとんがり帽子のように頭を見せる岬の白い岩肌が草のひろがる緑にかわると、そこだけ円形のステージのように丸くなった草原、日向ッ原が見えた。
「モグ、見てごらんよ。春が来とるよ。日向ッ原に、いっぺんに春が来とるよ」
 ヨウは大声で叫んだ。
 日向ッ原はまるで花たちが一夜のうちに開花したかのように菜の花とれんげが一面に咲いていた。春風の織ったじゅうたんがヨウの目にあざやかに映った。
「やっぱり夢で見たとおりだよ、モグ」∵
 ヨウはその場で飛び跳ねると、いつものように口をもぐもぐとさせているモグの首に抱きついた。モグは喉を鳴らしてから、ヨウの身体を釣り上げるように首を回した。

(伊集院静「機関車先生」)