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課題集 ハギ3 の山

○自由な題名 / 池新
○おねしょの思い出 / 池新


★私の平生の仕事は読むこと / 池新
 私の平生の仕事は読むこと、考えること、書くこと、話すことなどである。その中で「考えること」は、別にいつとは限っていない。どんな時どんな所ででも出来る。御飯を食べながらでも考えられる。満員電車の中でもよい。とくに夜寝床の中へはいってから考え出すと、だんだん頭がさえてきて、よい思いつきが浮かぶことが多い。翌朝目がさめてから思いかえしてみると、まったくつまらぬ考え違いに過ぎない場合もあるが、時には昼日中には到底思いもつかぬ新しい着想が含まれていて、それが仕事のきっかけになることもあるのである。
 つぎに、「書くこと」というのに二通りある。一つの着想を数式で表現し、計算を進め、その結果を経験的事実と比較するというのが一つ。これは考えることの直接の延長であると見てよい。この意味の「書くこと」は一つの専門的な論文が出来上がることによって一応終結する。もう一つはある外部的な事情にせまられて特別に筆を執るという場合である。現に私がこの短文を書いているのもそれである。それはなかなか楽ではない。ことにそれが長篇になるにしたがって労苦は加わってくる。ましてそれをまとめて一冊の書物にするとなると大変である。
 読書が人生の大きな喜びであるのに比例して、著作には苦しみがあるのである。そうして出来上がったものには、いつも不満足な点が多いのである。すくなくとも私自身に関する限り、本を世に出してああよかったと思ったことはない。出来上がった本を見ると、いつもいろいろな欠点が目について、いてもたってもいられない気持になるのである。しかしそれも結局は私自身の努力が足りなかったのだと反省せざるを得ないのである。
 これを逆の面からいえば著作の労苦が多ければ多いだけ、それを読む人の楽しみが増すならば、労苦はじゅうぶんに償われているわけである。そう思うと、どんな短いものでもおろそかには出来ないことになる。しかし私どもにとっては、何といっても専門外のことを書くのは苦手である。また専門の範囲内でも、同じ問題の通俗∵的な解説をたびたびやらねばならぬのは苦痛である。それが多少なりとも科学の普及になると思えばこそである。
 そこで私ども専門家にとっての今後の義務は、むしろ程度の高い本当の専門書の著作にあるのではなかろうかと思う。とくに現在のように、外国の書籍の輸入が杜絶している際には、質量ともに研究の典拠となるような書物が各分科にわたって刊行されることが望ましいのである。かようなものへの要望が強いのに比例して、それを書く人の労苦は多いであろう。それは到底片手間で出来ることではない。
 ところが書物の執筆を依頼されるような人は、必ず他に多くの仕事を持っているのである。その上に同じような著作をあちらこちらから同時に頼まれて困る場合も多いのである。ここに真に良い専門の書の世に出難い理由があるのである。したがって真に価値ある専門書を多く世に出すには、第一に一人の著者に同じような著作を幾つも頼まないこと、第二には、著者が他の仕事から解放されて一つの著述の完成に専念し得る期間を持つことが必要であると思う。しかしそれはいいやすくして、なかなか行なわれ難いことであろう。

(湯川秀樹「読書と著作」)