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課題集 黄ツゲ の山

○自由な題名 / 池新
○本 / 池新


★「あほう、かしこ」(感) / 池新
 「あほう、かしこ」という言葉があるそうだ。これは男が妻に迎えるべき理想の女性を形容する言葉だという。
 男でもそうだと思うが、女性には「かしこ、かしこ」「かしこ、あほう」「あほう、かしこ」「あほう、あほう」の四タイプあるのだが、「かしこ」は賢いということで、「あほう」は読んで字のごとしである。
 この言葉を、中国古典の名言録」(プレジデント社)で見ると、「かしこ、かしこ」のタイプは、女房にしたらうっとうしくてやりきれないが、「あほう、あほう」でも困ってしまう。「かしこ、あほう」は賢そうだが、肝心なところが抜けていて、理想は三番目の「あほう、かしこ」なのである。
 これも、一見、抜けているように見えるが、そのじつ締めるところは締め、押さえるところは押さえている。やはり、女房にして安心できるのは、このタイプなのである。
 四つのタイプ分けは、何も女性だけとはかぎらず、男性についても、さらには会社組織の長、リーダーについてもまったく同じことが言えるはずである。また、
 「知にして愚をよくすれば、すなわち天下の知加わるものなし」
 という、古い中国の言葉がある。
 自分に知恵があるうえに、自分を愚か者と考えて、他人の意見を受け入れることができるようになるならば、もはやこれに加える知恵はない、ということだ。
 私は自分に「知」があるとは思わないが、若いころから、多少の知性は身につけたほうがいいと思ってきた。他人の意見を受け入れることは、私がモットーとしてきたことで、これは身を低くして、情報を集中させる姿勢である。
 やはり、知性が勝(すぐ)りすぎると、周囲を暗くさせ、苛立たせることになる。
 そういった意味でも組織の中でみんなと一緒にやっていこうと思ったら、「あほう、かしこ」に生き、「知にして愚」でいたほうがいいのではないか。私はそう思う。
 そして、私はこれがビジネスマンや経営者、そして組織のリーダーにとって必要な条件だと思っている。「知」はリーダーにとって欠くことのできない条件であり、これが欠けていたのでは、たちまち組織の崩壊を招くにちがいない。
 しかし、「知」が過ぎると、組織の細かいところまで見えすぎ、したがって、ああでもない、こうでもないと迷いばかりが多くたってしまう。
 つまり、「愚」の部分もなければ、大胆な判断、的確な部下への指示は出せないのである。
 (中略)
 「知にして愚」、これは人間のみならず企業にも当てはまる。
 「中国名言選」(竹下肥潤(たけしたともます)著・プレジデント社刊)に「徳は才の帥(すい)なり」という司馬光の言葉が紹介されている。著者の詳説によると、司馬光は自身の著作「資治通鑑(しじつがん)」の中で、治乱興亡の原因は上に立つ者にありとして徳と才の関係を語り、トップを選ぶときには、才より徳にウェイトを置くべきとしている。
 「徳と才は、もともと違っているのに、世の中の人はこれを区別することができず、おしなべて賢人だと言う。これが人を見損なう原因である。徳は心が真っ直ぐでバランスの取れた能力のことを言い、才は頭が切れ、精神が逞しいことを言う。才こそ、才子が人の支持を失う原因である。才とは徳の資材であり、徳は才を正しい方向に向かわせる指揮者なのである。だから、徳と、才の双方が充分伸びている者を聖人と言い、徳も才も双方が失われている者を愚人と言う」というようなことを、司馬光は言っている。
 また、徳が才より勝(まさ)っていれば君子、才が徳より勝っている者は、小人とも言っている。さらに、人を選ぶ原則にまで言及し、聖人・君子がいちばんだが、それが叶わぬなら、小人より愚人を選べとも言う。その理由だが、君子は才を用いて害を行なう、小人はその才をたのんで悪を行なうからだそうだ。愚人のほうがよいというのは、不善を行なおうとしてもそれだけの知恵も力もないからだ、と言っている。
 著者は「トップになったら、部下と才を競うことなく徳を第一義に考え、修養に心がけるべきであろう。とかく才人は、自己本位のことが多いし、すぐ人を軽蔑する。心すべきことと思う」と結んでいる。経営者はえてして事業を大きくしたいとか、ビッグカンパニーを目指したりするが、そうするとどうしても歪みが出てくる。しかし、グッドカンパニー、つまりエクセレントな会社を目指し、そこに働く人たちが謙虚で礼儀正しくし、常に人の意見にも耳を傾けられる人間であれば、社会はきっと評価し、尊敬してくれるものだと思う。
 「知にして愚」(樋口廣太郎著・祥伝社)